島津忠久
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島津忠久(しまづただひさ、治承3年12月30日(1180年1月28日) - 安貞元年6月18日(1227年8月1日))は島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。出身については島津系図では源頼朝の庶子とされるが、現在も様々な説があり定説がない(#出身にて後述)。忠久の母はやはり島津系図では比企能員の妹・丹後局とされる。妻は畠山重忠の娘。若狭国守護職津々見忠季は弟(一説に兄)。
[編集] 経歴
大阪・住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。
島津庄の荘官(下司)の惟宗忠康の子である惟宗忠久は、幕府御家人となり、源頼朝から日向国島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ、「島津」姓を名乗った。その後、薩摩国・大隅国・日向国の3ヶ国の守護職に任じられた。しかし、建仁2年(1203年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪される。
その後、北条氏との関係を修復し、薩摩国においては建保元年(1213年)守護職に復職、承久3年(1221年)越前国守護職に補任され、次男・島津忠綱を守護代とした(越前島津氏)。
[編集] 出身
島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。但し、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいない。
また、以前は「惟宗広言の実子説」が定説であったが、惟宗氏は文官で「言」を通字としているにも関わらず、広言の子として(「忠」を通字とする)忠久や弟・忠季がいるのは不自然と思われるとの理由から、現在では渡来系の秦氏の流れを汲む「惟宗忠康の子」とする説が有力である。
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