山本宜久
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山本 宜久 | ||||||||
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基本情報 | ||||||||
本名 | 山本 宜久 | |||||||
通称 | 前田イズム継承者 ヤマヨシ(ヤマノリ) |
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国籍 | 日本 | |||||||
誕生日 | 1970年7月4日(37歳) | |||||||
出身地 | 日本山口県 | |||||||
所属 | 前田道場 →リングス →フリー →高田道場 →フリー |
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身長 | 190cm | |||||||
体重 | 103kg | |||||||
階級 | ヘビー級 | |||||||
スタイル | 柔道 | |||||||
テーマ曲 |
山本 宜久(やまもと よしひさ、1970年7月4日 - )は、日本の男子総合格闘家。山口県出身。リングス・ジャパン所属。
リングスでデビューし、試合を重ねる。リングス解散後、PRIDEに参戦するも結果を残せず、HERO'Sに参戦。
リングネームを山本宜久→山本憲尚(やまもと のりひさ)→山本宜久と改名している。
目次 |
[編集] 来歴
幼少時代は女の子が欲しかった両親によって女装をさせられて育った。
高校時代に柔道を経験。高校卒業後、職を転々とした後に第2次UWFへ入門。しかし、顎の骨折によって退団した。
[編集] リングス
1991年に前田日明に弟子入りし、翌年前田の格闘技団体リングスで、成瀬昌由を相手にデビュー。初勝利は1993年の西良典戦。
リングスでは田村潔司、金原弘光らと共に団体を引っ張る。リングス戦績37勝24敗4分。
1995年4月20日、「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン 1995」ではヒクソン・グレイシーと対戦。ヒクソンに対し、フロントチョークをかけるなどしたが、3R3分49秒スリーパーホールドで一本負け。ヒクソンのパンチを受け、眼窩を骨折した。まだルール問題が明確でなかった総合格闘技の創成期に行われたこの試合で山本はヒクソンにテイクダウンされないようにと常にロープを掴みつつ、フロントチョークをかけていた。試合後、ロープを掴む行為が試合の進行を妨げるなどの問題と取られ、それ以降の大会ではロープを掴む行為が反則と見なされるようになった。
リングス時代にはモーリス・スミス、ヒカルド・モラエス、ジェレミー・ホーンなどと対戦経験がある。しかし、戦績は今ひとつ振るわなかった。
2001年2月24日、KING OF KINGS 2000 GRAND FINALでヴァレンタイン・オーフレイムに腕ひしぎ十字固めで一本負け。この試合が山本にとってリングス最後の試合となった。また、この試合よりリングネームを山本憲尚と改名した。
[編集] PRIDE
2001年5月にリングスを退団し、フリーとしてPRIDEに参戦。デビュー戦となったPRIDE.16のアスエリオ・シウバ戦では前田日明のテーマ曲である「キャプチュード」で颯爽と入場するも、開始11秒でTKO負け。
2001年12月12日付けで高田延彦主宰の高田道場へ移籍。12月23日、PRIDE.18でヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤから一本勝ちを収めた。山本にとって、PRIDEにおける明快な勝ち星はこの試合だけである。
以降は、ボブ・サップ、ガイ・メッツァー、ヒース・ヒーリングといった強豪と対戦し敗退。アレクサンダー大塚には勝利しているが、大塚の負傷(右ふくらはぎの筋肉断裂)によるものである。
2003年に行われたPRIDE武士道への出場権を賭けた非公式戦では、松井大二郎に一本勝ち。
2003年11月9日のヒース・ヒーリング戦より、リングネームを本名に戻した。
2004年2月1日、PRIDE.27でPRIDEヘビー級GPの出場権を賭け、薬物中毒から復帰してきたマーク・ケアーと対戦。試合開始直後にケアーがタックルを試み山本はそのままマットに倒されたが、ケアーはリングに頭を強打し失神、山本のTKO勝ちとなった。山本は「プロレスラーなんでね、とっさにDDTを使ってしまった。まぁ彼の心が折れたんでしょうね」と発言。しかしケアーの首をクラッチできておらず、死に体であったため山本のこの発言に同調する者は皆無であり、高田延彦は山本のこの不用意な発言に激怒、結局ヘビー級GP出場は保留にされた。
わずか2週間後の2月15日、PRIDE 武士道 -其の弐-で再度PRIDEヘビー級GPの挑戦権を賭けミルコ・クロコップと戦う。ミルコのタックルの防御に対し、山本はこれをサミング行為とみなして2度アピールするも観客からはブーイングをもらい(また、ミルコの攻撃にニヤニヤと笑みを浮かべるなど、良くない印象を与えた)、しかもその行為がミルコを怒らせてしまい、山本はミルコの一方的な攻撃を受けてTKO負けを喫した。
2004年5月23日、PRIDE 武士道 -其の参-でチェ・ムベに判定負け。この試合が山本のPRIDEにおける最後の試合となった。
[編集] HERO'S
2005年2月に高田延彦主催の高田道場を退団。程なくして、かつての師匠前田日明がスーパーバイザーを務めるHERO'Sへの参戦を表明。しかし、その後交通事故で肩の骨を折る重傷を負い、2005年は全く試合ができなかった。
2006年3月15日に、ケガより復帰し、HERO'Sへ参戦。アトランタ五輪柔道銀メダリストのキム・ミンスと対戦したが、チョークスリーパーで一本負け。
2006年8月5日、HERO'Sでドン・フライと対戦。山本は試合前インタビューで「今回意地をね…、とにかく勝ちたい」と険しい表情で語っていたが、チョークスリーパーで敗北。試合後、「心と体がバラバラで限界かな、と思ってます」と引退を示唆したが現役を続行。
2007年3月12日に、「HERO'S 2007 開幕戦 〜名古屋初上陸〜」で柴田勝頼と対戦。「総合をちょっとかじってきたらしいが、僕も色々なトップ選手と対戦してきたんで、なめるなという感じ。ボコボコにしてやりますよ」と語っていたが、試合開始9秒、柴田の右フックが山本の頭にヒットしKO負け。セコンドには、高阪剛、成瀬昌由などリングス時代の戦友がついた。
2007年10月28日、HERO'S KOREA 2007でイ・テヒョンと対戦し、ミドルキックで倒され、グラウンドパンチでTKO負け。
[編集] 戦績
総合格闘技 戦績 | ||||||
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31 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
11 勝 | 1 | 0 | ||||
19 敗 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | イベント名 | 開催年月日 |
× | イ・テヒョン | 1R 1:03 TKO(グラウンドパンチ) | HERO'S KOREA 2007 | 2007年10月28日 |
× | 柴田勝頼 | 1R 0:09 TKO(右フック) | HERO'S 2007 開幕戦 〜名古屋初上陸〜 | 2007年3月12日 |
× | ドン・フライ | 1R 4:52 チョークスリーパー | HERO'S 2006 ミドル&ライトヘビー級世界最強王者決定トーナメント準々決勝 【スーパーファイト】 |
2006年8月5日 |
× | キム・ミンス | 2R 1:32 スリーパーホールド | HERO'S 2006 | 2006年3月15日 |
× | チェ・ムベ | 2R終了 判定0-3 | PRIDE 武士道 -其の参- | 2004年5月23日 |
× | ミルコ・クロコップ | 1R 2:12 TKO(パウンド) | PRIDE 武士道 -其の弐- | 2004年2月15日 |
○ | マーク・ケアー | 1R 0:40 TKO(DDT) | PRIDE.27 | 2004年2月1日 |
× | ヒース・ヒーリング | 3R 2:29 スリーパーホールド | PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦 | 2003年11月9日 |
○ | アレクサンダー大塚 | 2R終了時 TKO(ドクターストップ) | PRIDE.24 | 2002年12月23日 |
× | ガイ・メッツァー | 3R終了 判定0-3 | PRIDE.22 | 2002年9月29日 |
× | ボブ・サップ | 1R 2:44 TKO(パンチ) | PRIDE.20 | 2002年4月28日 |
○ | ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ | 1R 1:43 アームバー | PRIDE.18 | 2001年12月23日 |
× | アスエリオ・シウバ | 1R 0:11 TKO(パウンド) | PRIDE.16 | 2001年9月24日 |
× | ヴァレンタイン・オーフレイム | 1R 0:45 腕ひしぎ十字固め | リングス KING OF KINGS 2000 GRAND FINAL 【準々決勝】 |
2001年2月24日 |
○ | クリストファー・ヘイズマン | 1R 3:57 KO | リングス KING OF KINGS Bブロック 【2回戦】 |
2000年12月22日 |
○ | ビターゼ・アミラン | 1R 4:38 腕ひしぎ十字固め | リングス KING OF KINGS Bブロック 【1回戦】 |
2000年12月22日 |
× | セーム・シュルト | 1R 2:54 TKO | リングス・オランダ Missisipidreef in Utrecht | 2000年6月4日 |
× | ブランドン・リー・ヒンクル | 1R 2:21 チョークスリーパー | WEF 9 | 2000年5月13日 |
× | ジェレミー・ホーン | 2R 2:50 肩固め | リングス MILLENNIUM COMBINE | 2000年4月20日 |
× | ブラッド・コーラー | 1R 1:57 肩固め | リングス KING OF KINGS 予選Aブロック 【1回戦】 |
1999年10月28日 |
○ | ヴァレンタイン・オーフレイム | 1R 3:35 マウント掌打 | リングス BATTLE GENESIS Vol.5 | 1999年9月15日 |
△ | 田村潔司 | 20分終了 | リングス | 1999年6月24日 |
○ | 高阪剛 | 1R 15:41 KO(打撃) | リングス | 1999年5月22日 |
○ | ヨープ・カステル | 1R 7:32 KO | リングス | 1999年4月23日 |
○ | ヴァレンタイン・オーフレイム | 1R 2:40 腕ひしぎ十字固め | リングス | 1999年3月22日 |
○ | アンドレイ・コピィロフ | 1R 6:55 チョークスリーパー | リングス | 1999年2月21日 |
× | 田村潔司 | 18:54 フロントネックロック | リングス | 1998年9月21日 |
× | 高阪剛 | 20分終了 判定 | リングス | 1997年4月4日 |
× | 田村潔司 | 9:49 腕ひしぎ十字固め | リングス | 1996年12月21日 |
○ | 高阪剛 | 13:04 ヒールホールド | リングス | 1996年4月26日 |
× | ヒクソン・グレイシー | 3R 3:49 チョークスリーパー | バーリ・トゥード・ジャパン・オープン 1995 【1回戦】 |
1995年4月20日 |
[編集] プロレスとの関わり
過去にZERO-ONEや新日本プロレスのリングに乱入したが、未だにプロレスでの試合出場はない。
2001年のリングス退団後にZERO-ONEのリングに乱入した際、山本は小川直也をパンチで失神させ「寝言は寝て言え」と挑発したが、両者の対戦は実現しなかった。
2005年の高田道場退団後に新日本プロレスに乱入した際は、永田裕志と大乱闘を繰り広げたが、対戦は実現せず、以降永田との因縁は無かったことになっている。