山口武平
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山口 武平(やまぐち ぶへい、1921年5月19日 - )は、茨城県の政治家。自由民主党茨城県連合会会長。第64代・97代茨城県議会議長。旧・岩井市名誉市民。
[編集] 経歴
茨城県坂東市出身。秋田鉱山専門学校を卒業し旧・神大実村助役を経て1955年に茨城県議会議員に初当選。同期に梶山静六(のち衆議院議員)がおり、梶山が国政に転出した後も盟友の関係であり続ける。1966年に県議会議長選出をめぐる茨城県議会黒い霧事件で起訴、最高裁まで争うが執行猶予つき有罪判決を受けた。
1970年に中村喜四郎(先代)死去に伴う、参議院議員補欠選挙に自民党本部や県連の公認で出馬するが、中村後援会の「喜友会」を中心に多数の造反者が出て無所属で出馬した喜四郎未亡人の登美に敗れる。1971年に(岩井市制(当時)に伴う)県議会議員補充選挙で県議会議員に返り咲くが、その後も中村喜四郎(2代目)とは対立関係が現在に至るまで続いている。
1989年に自民党県連幹事長から県連会長になる。自身の県議選には平沼赳夫や麻生太郎らが駆けつけ「全国の県議のなかで一番中央に顔が効くのはこの山口さん」と言い、小泉純一郎総理訪朝の際には前夜に電話を通じて会談するなど、国会議員の地位にはないものの、全国有数の勢力を誇る県会自民党を背景に茨城県政はおろか国政にまで影響を及ぼしている。陳情の際は、国会議員より上座に座ると言う。2005年10月2日に県会議員50年在職表彰を受けた。平成18年第1回定例会における前議長辞職に伴う議長選で、二度目となる第97代議長に就任。また、地方の代表としての三位一体改革での政府との交渉役として、全国都道府県議会議長会で第60代会長に就任した。85歳での会長就任は同会史上最高齢である。
[編集] その他
- 母校である茨城県立水海道第一高等学校の第4代同窓会長を務めており、2006年には、山口武平伝刊行会が寄託した原資から「山口奨学基金」という奨学金制度が同校に創設された。
- 2006年の茨城県議会議員選挙で、大山広司広島県議会議員や北川弥助滋賀県議会議員に並ぶ14選を無投票で果たし、全国タイとなった。
[編集] 著書
- 「山口武平伝」(茨城新聞社 2005年刊行)
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