小鶴線
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小鶴線(こつるせん、こづるせん)とは、京都府南丹市日吉町の殿田駅(現日吉駅)から、福井県小浜市の小浜駅までを結ぶ予定であった未成鉄道路線。
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[編集] 路線データ
[編集] 歴史
[編集] 年表
鉄道敷設法の京都府殿田附近ヨリ福井県小浜ニ至ル鉄道として計画される。
- 1922年(大正11年)4月11日、予定線となる。
- 1951年(昭和26年)、ほぼ同ルートに現国道162号の一部が開通し、国鉄の路線バスが運行開始された。
- 1962年(昭和37年)3月29日、調査線となる。
- 1964年(昭和39年)6月25日、工事線となる。
- 1971年(昭和46年)、国鉄路線バス廃止
- 1986年(昭和61年)、鉄道敷設法廃止により計画凍結。
[編集] 概要
歴史的に京都と「海のある奈良」として古代より若狭地方の中心都市であった小浜とのつながりは深かった。近世に入ると、京都と小浜をはじめとした若狭とを結ぶ街道はバリエーションルートも含めると十数本の多きにわたった。中でも、京都市内から中川~小野郷(現在の京都市北区)を経て細野~周山~上弓削(現在の京都市右京区、旧北桑田郡京北町)から深見峠を越えて安掛~平屋~静原~鶴ヶ岡(現在の京都府南丹市、旧北桑田郡美山町)で京都・福井府県境を越えて納田終~久坂~口名田を経て小浜に達する街道は峠の難所が多かった。難所の峠は、福井県大飯郡おおい町(旧遠敷郡名田庄村)納田終と京都府南丹市(旧北桑田郡美山町鶴ヶ岡地区)の間にある堀越峠が日本百名峠(井出孫六著)にもあげられるほどであり、この他にも深見峠、栗尾峠、笠峠などの難路を抱えていた。
この街道は、明智光秀が天正年間の丹波平定作戦時に築城して以来、北桑田郡の中心となった周山を通り、郡内を縦貫して京都と小浜とを結ぶ重要な道路であったことから、周山街道(後の国道162号)と呼ばれ、小浜から上中~熊川~保坂~朽木~葛川~途中~大原~八瀬を経て京都市内に至る通称「鯖街道(後の国道303、367号)」ともども京都と小浜を結ぶ物流の重要な路線であった。そのため、明治以降は馬車や大八車、後には自動車が通れるように道路改良が進められていった。
しかし、鉄道での連絡は、明治時代に敦賀には北陸本線が、舞鶴には阪鶴鉄道(後の福知山線、舞鶴線及び山陰本線の一部)がすでに到達していたが、小浜に鉄道が開通したのはすでに大正時代に入った1918年のことであり、最も結びつきの深い京都に出るためには舞鶴ないしは敦賀から迂回せざるを得ず、最短コースで京都と結ぶ鉄道の開通が望まれていた。
また、この地域は北山杉や京都大学芦生演習林で知られるように林産資源の豊富な地域であり、山陰本線が殿田駅、次いで和知駅まで開業すると、由良川や桂川をいかだ流しで木材をこれらの駅まで運び、出荷していた。この他にもたんすや木炭の製造も盛んであったほか、丹波マンガン記念館で知られるように、平時には電池の芯や白熱灯のフィラメントとして、戦時には銃砲弾の弾頭として用いられる、マンガンやタングステンといった希少金属の鉱床がこの地域に広く薄く分布しており、鉱山からの搬出も馬車等で殿田、和知の両駅まで行われていた。
こうして、当線は若狭と京都をショートカットし、地方開発に有用な路線であったことから鉄道敷設法上の予定線となり、地元の熱心な運動の甲斐もあって、1928年の帝国議会ではその建設が議決された。起点駅が殿田とされたのは、小浜から京都への最短経路をとる際に、当駅から桂川支流の田原川を遡上して、海老坂、神楽坂のどちらかの峠を越えれば堀越峠手前までの旧美山町域と、堀越峠北側の納田終~小浜間は工事が容易であったことと、周山を経由した場合には途中で山陰本線上のいずれかの駅に出る場合に遠回りとなるが、周山から殿田まではすでにバスやトラックの便もあり、新線が開通した際に旧日吉町域東部の四ツ谷地区に駅を設ければ、周山をはじめとした旧京北町域の利便性が向上すると考えられたからである。併せて、大正末期から昭和初期にかけて周山街道の改修も進み、同時に地元からの陳情もあったことから、1937年7月から京都と当線をショートカットする、京都~周山~鶴ヶ岡間の省営バス京鶴線(後に国鉄バスを経て現在の西日本JRバス高雄京北線及び南丹市営バス)の運行を開始した。
その後、調査線に昇格した際に、路線名を小浜と鶴ヶ岡(現南丹市美山町鶴ヶ岡地区)の頭文字から小鶴線と付けられた。本来ならば旧分国名から一字を選んで若丹(あるいはその逆)線とするか、起終点駅名から一字を選んで小殿線とするかのどちらかであるが、あえて鶴ヶ岡から選んだのは、すでに開通していた国鉄バス京鶴線によるところが大きい。このような命名法は他に大糸線(信濃大町と糸魚川)があるくらいで、珍しい事例である。
戦後も建設促進運動は盛んで、沿線の森林・観光資源の開発や若狭湾一帯に建設されようとしていた原子力発電所等の電源開発、北陸と京都・山陽方面へのショートカット路線となることが建設理由に掲げられていた。しかし、戦後のモータリゼーションの進展は早く、1951年には堀越峠に国道162号の一部が開通し、自然災害に悩まされながらも自動車の通行が可能となった。その後も1974年の堀越トンネル開通などによって同国道の整備が推進されたことから物流の主力はトラックに切り替わった。また、林業の低迷や鉱山の閉山、エネルギー革命による木炭製造の壊滅的な打撃によって沿線人口が減少したことと、国道開通と同時に京都~小浜間の運行を始めた国鉄バスも、堀越峠が自然災害で不通になるために満足に走っている期間は短く、利用者が少なく1960年代後半には鶴ヶ岡~納田終間が休止状態となり、やがて廃止されてしまった。また、1974年に滋賀県西部を通る湖西線が開通すると、京都~小浜のルートは湖西線~近江今津駅~国鉄バス(現在の西日本JRバス)若江線がメインとなり、若狭地区も全長が小鶴線より短く、湖西線と直通する琵琶湖若狭湾快速鉄道の誘致に熱心となり、過疎地域を通る小鶴線は顧みられなくなってしまった。
このように社会構造が激変したため、福井県、京都府それぞれから熱心な陳情があっても、赤字が見込まれるため着工がなされなかった。今後も着工されないと思われていたが、敦賀駅以南のルートが決定していない北陸新幹線若狭ルートが並行することから注目を集めている。
[編集] 駅一覧
殿田駅(現日吉駅) - 美山駅 - 鶴ヶ岡駅 - 納田終駅 - 名田庄駅 - 小浜駅
- この他にも、旧日吉町域では町内東部の四ツ谷地区に、旧美山町内には宮脇地区に、小浜市内では口名田地区に駅がそれぞれ建設される可能性がある。
[編集] 関連するバス路線
現在、南丹市営バスが日吉駅から神楽坂トンネル経由で静原行きの路線(休日は自然文化村行き)を設定しており、静原で鶴ヶ岡行きに乗り換えることで、比較的容易に予定線をたどることができる。
[編集] 接続路線
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- エアリアマップ 山と高原地図48 京都北山2 昭文社
- 『京都・美山町 知井村史』 1998年 知井村史刊行委員会
- JTBキャンブックス『鉄道未成線を歩く 国鉄編』 森口誠之著 2002年6月 JTB
- 『BUS LINE』第4号 特集・西日本JRバス一般路線の大変革 2002年夏 日本過疎バス友の会