小松清廉
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小松 清廉(こまつ きよかど、天保6年10月14日(1835年12月3日) - 明治3年7月20日(1870年8月16日))は薩摩藩士、明治時代初期の政治家である。通称は尚五郎、帯刀。元の諱は兼才。官位は玄蕃頭。家紋は抱き鬼菊の葉。一般には小松帯刀(こまつ たてわき)の呼び名で知られる。
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[編集] 経歴・人物
天保6年(1835年)、薩摩国下原良村にて喜入領主・肝付兼善の三男として生まれた。安政3年(1856年)、吉利領主・小松清猷の妹千賀と結婚、婿養子となって小松氏の家督を継承した。 安政5年(1858年)、帯刀清廉と改名。
長崎で西洋水雷などを研究。文久元年(1861年)、島津久光に才能を見出されてその側近となり、大久保利通と共に薩摩藩の藩政改革に取り組んだ。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、その帰国後は家老職に就任した。その活動は主に京都におけるもので、朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務めた。
在京中は土佐藩脱藩浪士だった坂本龍馬(小松と龍馬は同年である)と昵懇となり、龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬がお龍を妻として娶った際の世話役を務めている。なお、薩長同盟における密約やその際に長州藩代表の桂小五郎が滞在したのも、京都における小松の屋敷であった。慶応3年(1867年)の薩摩藩と土佐藩との盟約である薩土同盟など、諸藩との交渉において大きな功績を立てている。徳川慶喜が諸大名を集め、京都・二条城で大政奉還を発表した時は小松が薩摩藩の代表として参上した。龍馬の新政府の人事構想では、西郷、大久保、桂を抑えて、筆頭に挙げており、当時の人々の小松の評価が窺われる。
明治維新後は新政府において参与や外国官副知事を務めた。フランス政府が江戸幕府の借金を明治政府が返さないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した時、小松と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済し窮地を脱した。版籍奉還にも貢献し真っ先に領地を返上したが、明治3年(1870年)に36歳の若さで病死した。
寛容で雄弁、明快な人柄で人望が厚く、大久保利通や西郷隆盛らからも将来を期待されていた人物であったが、あまりに若すぎる最期であった。下級藩士に過ぎなかった西郷や大久保、一介の浪人であった龍馬が幕末期に活躍できたのも薩摩藩家老であった小松による庇護が大きい。
ちなみに小松の名をとった芋焼酎を鹿児島県南さつま市にある吹上焼酎が製造している。[1]
[編集] 家系
小松氏の本姓は禰寝氏(ねじめ し)で、もとは大隅の国人禰寝領主の家系である。
- 歴代当主(脚注がないものは実子が相続)
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