小松姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日)は、上田藩藩主(後に松代藩に移封)、真田信之(信幸)の妻。徳川家譜代の本多平八郎忠勝の長女で、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)または於小亥(おねい)と称する。徳川家康の養女(徳川秀忠の養女という説もある)となり、1586年(天正14年、17年あるいは18年の説もある)真田信之に嫁ぐ。信之の次男 信政、三男 信重、長女 まん、次女 まさの二男二女の母。
小松姫が嫁ぐ際に徳川氏の名将・本多忠勝の娘として既に名が知られていた為に、見合い相手の男を一堂に並べて男の髷を持ち侮辱するような選び方をした。男たちの中で唯一その対応に拒否を示した真田信幸に惚れ込み、嫁いだという話があるが、これは事実とは反するようだ。各種史料を基にすると上田合戦における真田の軍略に惚れ、そしてこれを恐れた本多忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。これに対して家康は、上田合戦後に面会した信之(当時信幸)の器量に感じ入っており、これを自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから、これを快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせることとしたようである。なお、松代藩三代藩主真田幸道(小松姫の孫になる)が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
1600年の関ヶ原の合戦の際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった義父の昌幸が居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。ほどなく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、孫の顔を見たいという昌幸の所望をかなえた。これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、信繁父子が九度山に追放になった後も食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
こうしたエピソードからも小松姫の筋を通す人柄がうかがえるが、夫からの信頼は厚く良妻賢母の誉れも高かった。晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中武蔵国鴻巣で亡くなった。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。墓は鴻巣市勝願寺、沼田市 正覚寺、上田市 芳泉寺に分骨されている。また、長野県長野市 大英寺に霊廟がある。上田城内には小松姫が用いたとされる駕籠が残されている。