宮内庁下総御料牧場
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宮内庁下総御料牧場(くないちょうしもふさごりょうぼくじょう)は、1969年(昭和44年)8月18日まで、千葉県成田市の三里塚地区に存在していた御料牧場の名称である。
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[編集] 概要
[編集] 前身
江戸時代、下総台地の北部に幕府直轄の「佐倉七牧」と呼ばれる軍馬や農耕馬の放牧地があった。明治時代に入り文明開化の煽りを受け、国内での羊毛の生産を高める必要性が起こり、「1.青草に富むこと」「2.樹林地に恵まれていること」「3.物資の輸送に便利な所」を条件に、内務省は用地選定にアメリカの牧羊家アップ・ジョーンズを起用して各地の実地調査を行った。その結果、七牧の一つ取香牧(現:成田市取香、三里塚周辺)の隣接地が牧羊場に定められ、1875年(明治8年)9月、下総牧羊場が開場した。この時、取香牧も閉場し、牛馬の改良に当たる取香種蓄場として発足した。この頃、内務卿・大久保利通は現地の視察を行い、また、牧羊場・種蓄場両場の初代場長に、内務省の岩山敬義が就任した。
[編集] 設立
- 1878年(明治11年)5月、大久保が暗殺され非業の死を遂げる。その影響もあってか1880年(明治13年)1月、両者が合併して下総種蓄場となった。この合併は事業を整理する意味合いが含まれていたとされる。下総種蓄場は、場内を三里塚区、両国区(現:富里市両国)など七区に分けられており、本庁は両国区高堀に置かれた。
- 下総種蓄場の管理は、1881年(明治14年)にそれまでの内務省から新設された農商務省に移され、1885年(明治18年)6月には宮内省御料局の直管となり、1888年(明治21年)10月に「宮内省下総御料牧場」と改められ、それまで高堀にあった本庁が三里塚に移された。その後、牧羊事業は次第に縮小され綿羊の数も減少した。
[編集] 大正・昭和
- 明治から大正にかけて牧場経営は改善が図られ、事業は更に縮小へと向かった。1922年(大正11年)には牧場の経営が悪化し、馬の繁殖を一時中止した。
- 1923年(大正12年)、牧場の総面積の6割にあたる2,044町歩を帝室林野局へ移管し、かつての7区から、三里塚、両国の2区だけとなった。
- 昭和に入り、馬の繁殖が再開され、サラブレッドだけでなく、アングロ・アラブ(フランス原産)などの競走馬も手がけ、かつての活況が取り戻された。特にサラブレッドの産出は名高いものがあり、1927年(昭和2年)英国から輸入されたサラブレッドの種馬トウルヌソルは、第1回東京優駿大競走の優勝馬ワカタカを輩出する。また、1935年(昭和10年)に輸入されたダイオライトは、三冠馬セントライトを輩出。
[編集] 閉場から現在
- 1966年(昭和41年)3月、政府は「臨時新東京国際空港閣僚協議会」を改組し、千葉県と協議・検討を続けた結果、富里の東方約10㎞に位置する三里塚付近が航空管制、気象条件などの諸条件面で富里と差異がなく、また、国有地である下総御料牧場および県有地を最大限に利用し、かつ敷地面積を航空審議会答申規模の約半分にする事により、民有地の買収を極力少なくして地元住民に対する影響を最小限に留める事ができるなど利点がある事が判明した。同年7月4日の閣議で「新東京国際空港(現・成田国際空港)の位置及び規模について」を決定。牧場は、空港敷地となることに決まった。
- 1969年(昭和44年)8月、御料牧場は栃木県高根沢町に移転する事が決定され、同月18日に牧場の閉場式が行われたが、成田空港反対闘争激化の折であり、空港反対派が場内に乱入するという場面もあった。かくして明治以来の歴史に幕を閉じた。新牧場へは、80家族約300人、家畜約400頭が移転した。下総御料牧場の一部は三里塚記念公園として保存され今日に至っている。御料牧場移転後「社台牧場」など、民間のサラブレッド生産牧場も北海道日高地方にその拠点を移した。しかし、今なお三里塚周辺には、「出羽牧場」、「新田牧場」、「新堀牧場」、「千代田牧場」、「鈴木牧場」などが点在し、かつての馬の産地の面影を垣間見る事が出来る。
[編集] 歴史年表
- 1875年(明治8年) 大久保内務卿、牧羊場設置の上奏を上院に行う。大久保卿は取香牧を視察し、牧羊場並びに種畜場の用地を決定する。
- 9月 下総牧羊場、取香種畜場開設。初代場長に岩山敬義を任命。米国人アップ・ジョーンズ主任技師として雇用。レーサム採用。東北地方より和牛を購入、牛耕にて開墾開始。十倉村両国に牧羊場仮事務所を設置。
- 1876年(明治9年) 十倉村両国に本庁舎落成。全国より牧羊生徒57名入場。牛痘の為、牛耕を廃止。東北地方より牡馬購入、馬耕を設置。
- 1877年(明治10年) 内務省勧業寮を廃止。勧農局を設置。長原地区に病畜舎設置。レーサム退職。リチャード・ケイ採用。
- 1878年(明治11年) 取香種畜場に獣医科が設置される。獣医実地教育が始まる。
- 1879年(明治12年) アップ・ジョーンズ退職。伊藤内務卿・大隈大蔵卿来場。本庁舎を両国より高堀に移す。
- 1880年(明治13年) 下総牧羊場と取香種畜場を合併、下総種畜場と改称。
- 1881年(明治14年) 明治天皇行幸(6月28日~7月2日)。リチャード・ケイ退職。農商務省が設置され、農商務局に牧畜、獣医科を置き牧場はその所管となる。
- 1882年(明治15年) 明治天皇行幸(6月6日~6月9日)。獣医科を廃止。場内に駒場農学校獣医文科を設置。
- 1883年(明治16年) 波多野尹政場長に任命される。
- 1885年(明治18年) 牧場の所管が農商務省から宮内省になる。宮内省下総種畜場と改称。御料局が設置される。
- 1886年(明治19年) 宮岡正吉場長に任命される。同年勝野源八郎場長に任命される。野馬の飼養を廃止。宮内省官制定める。
- 1888年(明治21年) 牧場種馬寮の所管に移し、宮内省御料牧場と改称。新山荘輔場長に任命される。
- 1889年(明治22年) 事務所を両国区高堀から三里塚へ移す。
- 1891年(明治24年) 牧場会計を独立採算制とする。
- 1911年(明治44年) 千葉県営鉄道用地(多古線)として、8町2反、県道敷地用として2町5反を無償貸付。
- 1913年(大正2年) 千葉県営鉄道用地として8町2反を県へ無償貸付。
- 1914年(大正3年) 御料牧場官制公布され、御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となる。
- 1921年(大正10年) 本場の特別会計を改め通常会計に移す。
- 1922年(大正11年) 政府の行政整理により、用地2,044町歩を帝室林野局へ移管。後に、県・民間に払い下げる。御料牧場制を廃止。宮内省下総牧場と改称。馬の生産事業を中止。羽部義考場長に任命される。
- 1923年(大正12年) 増村嘉雄場長に任命される。
- 1926年(大正15年) 酒井克巳場長に任命される。
- 1927年(昭和2年) 新冠牧場に移管の種畜場を本場に戻す。馬の生産業務再開。英国よりサラブレッド種牡馬「トウルヌソル」を輸入。
- 1934年(昭和9年) 養鶏事業開始。
- 1935年(昭和10年) 英国よりサラブレッド種牡馬「ダイオライト」を輸入。
- 1939年(昭和14年) 獣医学実地教育創始記念碑が有志により建立。
- 1942年(昭和17年) 宮内省御料牧場と改称。田中二郎場長に任命される。
- 1945年(昭和20年) 主馬寮廃止。主殿寮が設置される。牧場はその所管となる。
- 1946年(昭和21年) 肉加工工場落成。本格的な肉加工業務が始まる。883町歩を帝室林野局へ移管後、払い下げる。
- 1947年(昭和22年) 宮内府法施行され、宮内庁は宮内府となる。
- 1948年(昭和23年) 131町歩を農林省に移管後、払い下げる。孵卵舎新築。
- 1949年(昭和24年) 宮内府は宮内庁となり、主馬寮廃止。牧場は新設の宮内庁管理部の所管となる。軽種馬の生産業務再開。
- 1953年(昭和28年) 昭和天皇・皇后、皇太子(今上天皇)行幸啓(5月7日)。第1回在京外交団招待。
- 1956年(昭和31年) 牧場が宮内庁の付属機関となる。
- 1961年(昭和36年) 輓馬生産事業開始。
- 1963年(昭和38年) 皇居内御料乳牛場を廃止。牧場にて業務を引く継ぐ。
- 1964年(昭和39年) 高野守雄場長に任命される。
- 1966年(昭和41年) 新牛乳処理場落成。
- 7月4日 三里塚地区に新東京国際空港設置の閣議決定。
- 9月~10月 新牧場の候補地調査の結果、栃木県塩谷郡高根沢町に設置の決定。
- 1967年(昭和42年)3月 新牧場を栃木県内に設置する旨の閣議決定。新牧場の用地買収並びに建設工事が始まる。
- 1969年(昭和44年)8月18日 牧場閉場式を挙行。
- 8月~9月 新牧場(高根沢御料牧場)へ移転開始。
[編集] 歴代場長
- 第1代場長 岩山敬義(1875年(明治8年)11月~1883年(明治16年)5月)
- 第2代場長 波多野尹政(1883年(明治16年)5月~1886年(明治19年)2月)
- 第3代場長 宮岡正吉(1886年(明治19年)2月~11月)
- 第4代場長 勝野源八郎(1886年(明治19年)11月~1888年(明治21年)9月)
- 第5代場長 新山荘輔(1888年(明治21年)9月~1922年(大正11年)11月)
- 第6代場長 羽部義考(1922年(大正11年)11月~1923年(大正12年)8月)
- 第7代場長 増村嘉雄(1923年(大正12年)8月~1926年(大正15年)6月)
- 第8代場長 酒井克巳(1926年(大正15年)6月~1927年(昭和17年)2月)
- 第9代場長 田中二郎(1927年(昭和17年)2月~1964年(昭和39年)10月)
- 第10代場長 高野守雄(1964年(昭和39年)10月~1966年(昭和44年)9月)
[編集] 桜と御料牧場
- 三里塚の春は、桜樹10万株とも言われ、花で満ちあふれ多くの人を集め、近くの成田山新勝寺、宗吾霊堂とともに名勝地として人々に親しまれた。
- 三里塚の桜は、牧場開創の際防風林としてスギ、マツ、ケヤキと共に、「ヨシノザクラ」、「ヤマザクラ」、「ボタンザクラ」などが植えられた事に始まる。広い牧場を散策しながら花の観賞が出来る事も特徴で、「一里、二里、花は桜の三里塚」ともてはやされていた。また、1969年(昭和44年)の4月1日から15日まで行われた、最後の桜まつりには、名残を惜しむ延べ20万人の花見客で賑わった。
[編集] 皇室と御料牧場
1881年(明治14年)と1882年(明治15年)には明治天皇の下総種畜場行幸があり、2度とも馬車を使用せず、出発(赤坂仮皇居)から還幸までの4泊5日の行程で37.5里(約140㎞)の道程を乗馬で過ごされ、綿羊の放牧、野馬の捕獲状況等を見学した。1885年(明治18年)の宮内省移管後は日本唯一の宮廷牧場として、皇室の御料牧場に対する関心も強まった。以後も皇族の来訪が相次ぎ、戦後の1953年(昭和28年)、昭和天皇・皇后、皇太子(今上天皇)が行幸啓し、飼養動物や農作業の状況見学した。太平洋戦争後の御料牧場は、御料馬や供奉馬の生産、御料用の畜産加工品をはじめ、生肉、鶏卵、菜類の生産供出が主要となった。
[編集] 御料牧場ゆかりの人物
- D・W・アップ・ジョーンズ(1831年~?)
- 新山荘輔
- 5代目の場長。32年間場長を勤めた。