妙高型重巡洋艦
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妙高型重巡洋艦 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 重巡洋艦 |
艦名 | 山の名 |
前型 | 青葉型重巡洋艦 |
次型 | 高雄型重巡洋艦 |
性能諸元 (竣工時 → 2次改装後) | |
排水量 | 基準:10,902t → 13,000t |
排水量 | 公試:13,281t → 14,984t |
全長 | 203.76m |
全幅 | 19m → 20.37m |
吃水 | 6.23m → 6.37m |
機関 | 艦本式専焼缶12基 艦本式タービン4基4軸 130,000hp → 132,000hp |
速力 | 35kt → 33.3kt[1] |
航続距離 | 8,000nm / 14kt[2] → 8,500nm / 14kt |
燃料 | 重油:2,500トン → 2,214トン |
乗員 | 792名 → 891名 |
兵装 (竣工時) |
50口径20cm連装砲5基10門 45口径12cm単装高角砲6門 61cm連装魚雷発射管6基 八年式二号魚雷24本 留式7.7mm単装機銃2挺 |
兵装 (2次改装後) |
50口径20.3cm連装砲5基10門 40口径12.7cm連装高角砲4基 61cm4連装魚雷発射管4基 九三式魚雷24本 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 |
装甲 | 舷側:102mm 水平:35mm 主砲:25mm |
航空機 | 2機 → 3機 (カタパルト1基 → 2基) |
妙高型重巡洋艦(みょうこうがたじゅうじゅんようかん)は大日本帝国海軍の重巡洋艦。同型艦は4隻。
目次 |
[編集] 概要
妙高型重巡洋艦はワシントン海軍軍縮条約に基づき建造された10,000トン級重巡洋艦であり、青葉型重巡洋艦の発展型といえる艦型であった。設計は平賀譲造船官の手によるもので、当初は魚雷発射管が装備されていなかった。しかしながら軍令部は魚雷発射管は必須の装備と考え、設計変更を要求したが平賀は魚雷発射管は不要との考えを頑として譲らず、妙高型は当初設計案が認可されることとなった。
その後平賀は欧米視察に赴き、その間に軍令部は藤本喜久雄造船官に妙高型の改設計を命じ魚雷発射管が装備されることとなった。
クラスA巡洋艦妙高型(大巡、甲巡・軍縮条約において規定された巡洋艦のうち8インチ砲を搭載するもの・完成時期から那智クラスと部内及び諸外国で呼ばれる場合がある)
特徴としては前クラスである古鷹型巡洋艦が、大正時代のいわゆる5500トン型軽巡洋艦・5,5インチ砲7門に対して建造された米7000トン級オマハ級軽巡洋艦・6インチ砲12門との戦力比を埋める為に設計されたのに比べ、本妙高型では、当初は八八艦隊計画案の中で同7200トン巡洋艦として計画されていたものを、ワシントン条約が締結されるにともない制限内で有力な艦が要望された事により誕生した。
軍令部案では8インチ砲8門61センチ魚雷八基35.5ノットの要求であったが、魚雷兵装の坑堪性への危惧から全廃。主砲10門艦への試案が提出された。大正12年これが容れられ、補充艦艇製造費で13、14年度に4隻が建造される事となった。
その後、軍令部の強い要望(2艦隊旗艦として駆逐艦と共に突撃させる為には雷装は不可欠との想定)により雷装が復活したものの魚雷の強度上の問題から艦内装備とされた事から居住区画が不足するなど設計は錯綜した。 その後完成した本艦は波形船型による船殻重量の軽減により重兵装の設計を図ったもののこれに失敗、予定の排水量より1割弱重く成ってしまった。(造船担当側は計算上の数値で設計された指示を厳密は守る努力より、確実で堅牢な建造工事を追求するためこの種の事例は珍しくなかった。又雷装で200トン+追加の兵員室など設計外重量の追加も有り約900トンオーバー)
水線部装甲は4インチで比較的厚く更に水中防御隔壁で仕切り、12度の傾斜外板とするなど可能な限り防備が追求されているものの、その高さは機関部で3.5m弾薬庫部分で2mと余り高いものではなかった。公試状態では水線上1.8mであったと伝えられる。
出力は13万馬力で、前型の機関において信頼性が不足したと考えられていた為、蒸気条件は飽和蒸気に抑えられている。公試速力は軽荷で行われた為35.5ノットとされたが実戦状態ではこれを若干下回るものと想定されていた。
その後昭和7年から11年の第一次、13年からの第二次改装により、主砲の正八インチ砲への改正(200㎜から203mm)、主砲弾の強化(110kgから125kg)、砲弾の給弾法をつるべ式に改正、大型のバルジへの改修、高角砲の改正、機銃の増備、水雷兵装の強化、カタパルトの増設・搭載水偵の増載と水偵庫の撤去、また反して機関関係ではボイラーが一部高温缶に取り替えられかつ巡行時に2軸推進であったものを4軸とも推進する形式に変えた事により250トンの燃料減載にも関わらず航続距離は7,000海里/14ノットから7,500海里/14ノットに延伸した。ただし速度は33.3ノット程度へと低下した。
特記事項として、8インチ砲の散布界過大は大きな問題とされており、遅延発砲装置の導入による砲弾間の相互干渉制御によって一定の効果があるものとされたが、導入後の本砲の散布界も決して良好とは言えなかった。実はそれより大きな危険とされていた機関部の中央縦隔壁については強度設計上及び主砲砲戦時の坑堪性を意図して設置されたものであるが、強度上の問題から片絃への浸水時の横転沈没の危険性に対しては一部を撤去することに留めており、航空魚雷攻撃にさらされた日本巡洋艦にとっては危険な因子として潜在し続けた。
:::概要注・設計主任の平賀大佐は損傷時の浸水極限の為これを許容したと伝えられる。戦例においても同様の設計を踏襲した利根型「筑摩」において至近弾により浸水した事例では浸水量を900トンに制御し、かつ反対舷注水によって傾斜の制御を可能としたのが平賀大佐の主張する所であった。しかしながらこの際14000トンの大艦にも関わらず一時傾斜角は30度にも達しており、反して米巡洋艦「キャンベラ」の台湾沖航空戦で事例では、航空魚雷1本の命中で全動力喪失4500トンもの浸水量に堪えた事と比べても、得失が問われる所だろう。
本艦主砲は、50口径砲で砲口初速840m、仰角40度で29,000m、弾薬定数は125発で列国の砲とほぼ同じ。発射速度は毎分3発程度、熟練の砲手により短時間ならば5発であった。
カタログ上は優秀であるが、目立った坑堪性を示した事はない。と開戦後の米軍報告で取りあげられた本級ではあるが又同じく米軍によってソロモン沖での諸海戦での事例から、日本巡洋艦の戦闘時の坑堪性が極めて高く評価され、夜間の遭遇戦では旋回速度の遅い12インチ以上の戦艦主砲では役に立たない事から9門の重8インチ152㎏砲弾を最大毎分10発/門射撃可能な最強最後の砲巡洋艦であるデ・モイン級巡洋艦の要求をうながした意味で、その設計と運用に注がれた努力の評価と見る事も可能であろう。[要出典]
:::概要注・総じてカタログ本に記載される本級の優秀さについて、個別の事例を確かめると、決してそれらの記載ほど傑出した艦とは見えない部分が多いのであるが、本級の示した戦績、ましてや存在感においては、それを知ってなお傑出した成功艦と言えよう:::
ちなみに本級の足柄は1937年(昭和12年)に英国国王戴冠記念の観艦式のためヨーロッパへ派遣され、その折り「・・・狼のような・・・」と精悍さを評されたと仄聞する。しかし彼の地において「狼」とは決して上品な形容詞ではなかった事を追記したい。
[編集] 同型艦
[編集] 参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 江畑謙介「重巡妙高型の建造と変遷」『艦船模型の制作と研究 重巡洋艦妙高クラス』(不二美術模型出版部、1971年)p17-41
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の重巡洋艦 |
古鷹型:古鷹 | 加古 青葉型:青葉 | 衣笠 |
妙高型:妙高 | 那智 | 足柄 | 羽黒 |
高雄型:高雄 | 愛宕 | 摩耶 | 鳥海 |
最上型:最上 | 三隈 | 鈴谷 | 熊野 |
利根型:利根 | 筑摩 |
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