妙喜庵
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妙喜庵 | |
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正面 |
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所在地 | 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56 |
位置 | 北緯34度53分32.11秒 東経135度40分49.27秒 |
山号 | 豊興山 |
宗派 | 臨済宗東福寺派 |
本尊 | 聖観音 |
創建年 | 明応年間(1492年~1501年) |
開基 | 春嶽士芳 |
正式名 | 豊興山 妙喜禅庵 |
文化財 | 待庵(国宝) 書院(重要文化財) |
妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。豊興山妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。
室町時代明応年間(1492年~1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。連歌師の山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑退去(大永3年(1524年)ごろ)後寺庵に改めたとの伝えもあるが、春嶽は永正6年(1510年)にすでに没している。また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもある。これらのことから妙喜庵=宗鑑旧居跡説は成立しがたい。
目次 |
[編集] 待庵
国宝。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には、1582年の山崎の合戦のおり羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し移築したとある。慶長11年に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる(中村昌生著 「待庵-侘び数寄の世界」)。 室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げ。床は4尺床、隅、天井とも土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。3箇所に下地窓、連子窓を開けており、自由な外光の取入れを初めて実現した建築と言える。竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室に続けて一畳に幅八寸ほどの板敷きを添えた次の間が設けられている。一重棚を備えているこの室の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない。
見学するには、およそ1ヶ月前までに予約が必要。近くの大山崎町歴史資料館には待庵の創建当時の姿の原寸大復元模型が展示されている。
[編集] 書院
国の重要文化財、書院造、桁行二間、梁間三間、一重、切妻造、杮(こけら)葺き。室町時代文明年間(1469年 - 1487年)に妙心寺の霊雲院書院を模して建てられたとされ、連歌の祖である山崎宗鑑の旧居と伝わる。前庭(待庵東側)には秀吉ゆかりの「袖摺りの松」(実は2代目)の切り株が残る。明月堂は同じく山崎宗鑑の旧居とされるが、今あるのは昭和初期に新築されたものである。旧明月堂は明治時代に関東の好事家に買い取られ現在所在不明であるが、室町時代にさかのぼるものではなく、桃山期後期(慶長年間)のものではなかったかとされている(前掲書)。
[編集] 関連項目
[編集] 所在地
- 〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56番地