天野信景
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天野 信景(あまの さだかげ、1663年10月25日(寛文3年9月25日) - 1733年10月15日(享保18年9月8日))は、江戸時代中期の国学者である。尾張藩士。字は子顕。通称は権三郎、のち源蔵、治部、宮内と改めた。白華・問津亭と号し、剃髪後は信阿弥陀・残翁・運甓斎・輟棹翁・凝寂堂と号した。
[編集] 概要
父は天野信幸、母は滋野井少将冬晴の女。名古屋城下南大津町に生まれる。尾張藩主徳川光友・綱誠・吉通・五郎太・継友の5代に仕える。
生家の天野家は、鎌倉時代の武将天野遠景の末裔と伝えられる。寛永元年(1624年)頃、山城国に住していた祖父孝信の代に尾張藩に仕え、次子であった父信幸は進物番・納戸を経て金奉行や町奉行を歴任し、四百五十石となっている。信景は父の歿後、貞享元年(1684年)に家督を継ぎ、寄合・鉄砲頭となる。享保8年(1723年)に病のため職を辞し、同15年(1730年)には剃髪して隠棲する。
[編集] 人物/事跡
人となりは、温厚にして博聞強記と伝えられる。特定の師は無かったとされるが、国典は伊勢神道の再興者とされる度会延佳(わたらい・のぶよし)から、仏典は養林寺七世・単誉上人一如から受けた。朱子学を基底におき和漢の学を究め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、著書は全千巻ともいわれる一大随筆集「塩尻」(元禄10年(1697年)頃の起筆。歿年まで書き継がれた)をはじめ国史・地誌・文学など多岐に亘り、「国書総目録」に収載されている書目だけで145に及ぶ。
元禄11年(1698年)に徳川綱誠の命によって「尾張風土記」の編纂事業が始まると、吉見幸和や真野時綱らとその任に当たった。この編纂作業は翌年の綱誠の死により中断(信景死後の宝暦2年(1752年)に「張州府志」として完成)されたが、この経験から実証学的な手法を身に付けたとされる。
それ以後、神道や儒教・仏教への歴史的な批判や、「万葉集」や「源氏物語」の他、歌語・俗語などの言語学的検証、そして本草学・天文学といった広範な分野において、実証学的な見地から考察を加えている。
信景の実証的な指向は、その後の本居宣長や伴信友・河村秀根などに強い影響を与えたと考えられ、平田篤胤の「俗神道大意」・谷川士清の「倭訓栞」は信景の随筆「塩尻」に負うところが大きい。