大逆罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大逆罪(たいぎゃくざい)とは、日本において1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加える事を指した罪名。日本以外の君主制国家では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
近代国家としての日本の統治機構の根幹として皇室制度(天皇制)を重視した大日本帝国憲法体制下の刑法典においては大逆罪を最も重大な罪の一つとした。
目次 |
[編集] 条文
- 旧刑法第116条
- 天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
- 1947年改正前の刑法第73条
- 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
[編集] 概要
1880年に公布され、2年後に施行された(旧)刑法において導入されたが、その刑罰は他の刑法上の刑罰規定と比較しても異質なものであった。
その特徴として、
- 天皇・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・皇太子(新刑法では皇太孫が追加)に対する既遂は勿論の事、未遂や更に予備(準備)や陰謀などの計画段階、それどころかその意思を抱いた事が明らかになっただけでも既遂犯と同じ処罰対象とみなされた。
- 適用される刑罰が死刑のみであった。尊属殺人罪や内乱罪のような重大犯罪でも無期懲役刑が適用される可能性があったが、大逆罪にはそれがなかった。
- 三審制が適用されず、大審院での一審のみでの裁判で刑罰が確定した。
の以上3点が挙げられる。
大逆罪が適用されるいわゆる「大逆事件」の適用例はわずか4件であり、うち既遂はなく未遂は2件、予備・陰謀が2件であり予備・陰謀事件の中には無実の者が含まれていたとされている。特に最初の適用例であり、最も著名な例である幸徳事件は26名の被告のうち実際に陰謀を計画したのは数名であったにも拘らず、24名に死刑判決が下された上に天皇の「仁慈」によってうち12名が無期懲役に減刑されるという一定の流れを形成することになる。
即ち、
- 大逆罪の発動が政府の政治的意図に基づいて反政府派の抹殺に用いうる事実を示した事。
- 天皇に対して刃を向ける者への断罪を社会に対して強烈に印象付ける事で、皇室制度及び国家体制の秩序維持に大きな効果を発揮した事。
- 天皇の恩赦によって死刑を免れさせる事で天皇の慈悲・恩恵を社会に対して強烈に印象付ける事で、国民の皇室制度及び国家体制への忠誠を深めさせる意図であった
と考えるものもいる。
[編集] 大逆罪の廃止
第二次世界大戦後、日本国憲法の制定とともに関連法制の改正が行われた際に大逆罪などの「皇室に関する罪」の改正は当初予定されてはいなかった。なぜならば、新憲法でも天皇は国家及び国民統合の「象徴」であり、それを守るための特別の刑罰は許されると解釈されていたためである。これに対して、GHQは大逆罪などの存続は国民主権の理念に反するとの観点からこれを許容しなかった。当時の内閣総理大臣吉田茂自らがGHQの説得に当たったものの拒絶され、遂に政府も大逆罪以下皇室に対する罪の廃止に同意せざるを得なくなった。