大武神王
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大武神王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 대무신왕 |
漢字: | 大武神王 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
テムシンワン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Daemusin-wang |
大武神王(たいぶしんおう、4年 - 44年)は、高句麗の第3代の王(在位:18年 - 44年)であり、大解朱留王、大朱留王ともいう。先代の瑠璃明王の3番目の男子であり、姓は高、諱は無恤(ぶじゅつ、ムフュル)。『魏書』高句麗伝には「朱蒙死,閭達代立。閭達死,子如栗代立。如栗死,子莫來代立」とあり、『三国史記』の伝える系譜とは異なりを見せる。治世中に周辺部族へ侵攻して高句麗の領域を拡張しており、初期の高句麗においてその基礎を築いたと言ってもよい人物である。
目次 |
[編集] 治世
瑠璃明王32年(13年)に高句麗が扶余から攻められたとき、王の命に従って、無恤は奇策を以て扶余軍を防ぎ、却って撃退した。この功績によって翌(14年)に11歳で太子に立てられ、高句麗の軍事権限を与えられた。18年10月に瑠璃明王の死去に伴い、王位を継いだ。
22年2月には扶余へ侵攻して帯素王の首を取ったが、王の弟(名は不明、金蛙王の末子)が扶余の残党を取り纏め、鴨緑谷で曷思王を名乗って扶余の勢力は今しばらく存続した。大武神王はこの戦いでの戦死者を弔い戦傷者を慰問するなどしたため、民は大武神王の徳に感じ入って身を国に奉げることを誓った。同年7月には扶余の帯素王の従弟が族人1万余人を率いて投降してき、26年10月には蓋馬国を征伐した。同年12月には蓋馬国の滅ぼされたことを聞いた句茶国王が国ごと投降してきた、というように次第に領土を拡張した。28年に後漢の遼東太守から討伐を受けたが、尉那巌城に籠城して数十日に渡って固守し、漢軍を功なく引き上げさせた。32年には楽浪国[1]へ侵攻して降伏させ、後に37年にはあらためて楽浪国を滅ぼして支配下に収めた。しかし同地に対して44年9月には後漢の光武帝が海路出兵して討伐し、薩水(平安道の清川江)以南が後漢の郡県とされた。この敗北の後に王は44年のうちに死去し、大獣村原にて葬儀を行われ大武神王と諡された。
32年には後漢に対して朝貢を行っており、光武帝より名を下句麗(王莽によって高句麗から改名されたもの。)から高句麗に戻されている。『後漢書』に拠れば、このとき同時に爵位を侯から王に戻されたとし、『三国志』では、このときから初めて王を称せられたとある。
[編集] 楽浪国についての説話
『三国史記』高句麗本紀・大武神王紀には、大武神王の王子好童(こうどう、ホドン)と楽浪王の姫との恋の話として今に知られている説話が挿入されている。
好童が楽浪国王の崔理の娘を妻とするに当たって、楽浪国の宝である角笛・太鼓(敵が寄せると自然と鳴るというもの)を壊すことを促した。娘がこれらを壊した事を聞いた後、好童は大武神王に今こそ楽浪国に攻め入る好機と勧め、王は楽浪国に攻め入った。宝器が鳴らなかったために軍備を怠った楽浪王は突然城下に迫った高句麗軍を見て驚き、宝器が壊されていることを知って娘を殺し、城を出て降伏した。
[編集] 大武神王を扱った作品
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
[編集] 脚注
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