大岡忠恒
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 宝暦元年(1751年) | |||
死没 | 天明6年3月17日(1786年4月15日) | |||
墓所 | 窓月山浄見寺 | |||
官位 | 従五位下越前守、美濃守、能登守 | |||
主君 | 徳川家重→家治 | |||
藩 | 三河国西大平藩主 | |||
氏族 | 大岡氏 | |||
父母 | 大岡忠宜、小瀬氏 | |||
兄弟 | 忠豫、忠恒 | |||
妻 | 毛利広豊の娘と婚約 | |||
子 | 秀三郎、忠移、忠挙(政吉)、養子:忠與 養女:大岡忠宜の娘(大岡忠與室) |
大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、江戸時代中期の大名。三河国西大平藩第3代藩主。大岡忠相の孫。大岡忠宜の次男。大岡忠世家5代藩主。
明和2年(1765年)、兄の大岡忠豫が廃嫡されたため、翌、明和3年(1766年)、父・忠宜から家督を譲られ、忠恒は弱冠15歳で大岡家を相続する。従五位下越前守に就任。
第2代播磨国安志藩主・小笠原長逵の四男・小笠原忠與を養子とし、大岡忠與と名乗らせる。天明4年(1784年)に忠恒は隠居して、忠與に家督を継がせた。のち越前守から美濃守に転身し、天明5年(1785年)に同職から能登守に転身する。天明6年(1786年)、死去。享年36。
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