大屋霊城
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大屋霊城(おおやれいじょう 1890年8月15日 - 1934年6月10日)は、日本の造園家・都市計画家。関西を中心に活躍。阪神甲子園や近鉄藤井寺の都市開発、また都市における公園・緑地、またガーデンシティの研究や、遊び場・公園遊具の研究方面でも活躍した。
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[編集] 経歴等
明治23年福岡県生まれ。柳川市出身。柳川にある養福寺住職の三男。一番上の兄は、仏教学の分野で旧仏教、新仏教の呼称を定着させた大谷大学の仏教学者大屋徳城。
1909年(明治42年)、第五高等学校 (旧制)に進学、農学を志す。1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学農学科卒業、明治神宮造営局に奉職。
1915年(大正4年)から、大阪府史蹟名勝天然記念物調査委員。1917年(大正6年)、大阪府立農学校(現大阪府立大学農学部)の教諭に赴任する。教諭のかたわら、同年(大正7年)に本郷高徳の推挙によって大阪府営住吉公園改良工事事務を委嘱。大阪府が設置した公園設置調査委員会の委員をつとめる。公園改良は翌年竣工させる。1919年(大正8年)から大阪府技師。翌年から内務省の出先機関である都市計画大阪地方委員会技師を兼務し、府営公園の管理と改良、新規計画などと、大阪府を中心に公園また風致計画、都市計画業務に参画、造園分野の技師、専門家として都市公園行政にかかわる。
1921年(大正10年)には、都市計画に関する調査のために1年間ヨーロッパを渡航しガーデンシティのレッチワースにほか、ガーデンサバーブ、ガーデンヴィレッジ、ドイツのクラインガルデン(ガルデンコロニー)などを視察、1923年から関西建築協会(現日本建築協会)の機関紙『建築と社会』第6巻に「進め過群より花園へ」を連載、視察したヨーロッパの現状を紹介し、「花園都市」を提唱、これはのちに「花苑都市」と呼びかえる。 またドイツのコロニー型住宅をまねして、実際に柏原市に家を新築し実践した。
1923年(大正12年)ごろから堺市都市計画に参画。1924年、日本で最初に子供の遊び場調査を行っている。後に1928年(昭和3年)、「都市における児童遊場の研究」で農学博士を授与。1933年には園芸学会誌第4巻第1号pp15-24において、都市の児童遊場の研究を発表、調査結果から「小公園は児童の遊場としての価値左程に大ならざる事を窺ふに. 足る」とし、遊び場は道ばたであることを発表した。また、児童遊園設計の基準として、「距離の短なるだけ大にして本邦大都市に於ては五町を以て限度とす」と来園者と距離の関係を定式化している。
1925年(大正14年)の12月から2回、大阪府の機関紙『大大阪』に「集中か分散か」を寄稿し、大阪の市域拡張を踏まえ、分散型都市を提唱。1930年『建築と社会』4月号「都市風景の構成」では、街路形状が都市美に対する影響について論じている。
1927年(昭和2年)に府営住江公園を着工までこぎつけたあと、策定した大阪都市計画公園が(昭和3年)に都市計画決定される。その後岐阜都市計画公園の計画、箕面公園拡張と名勝指定に尽力。また府営山田村公園、浜寺公園、牧岡公園計画策定、朝鮮釜山府の釜山公園計画、三重県松坂の公園計画、六甲植物園計画、岸和田城址公園、上田城址公園、島根県松江市公園計画策定など、公共の造園に対し行政指導や計画設計に従事するかたわら、甲子園と藤井寺のほか、阪急電鉄の宝塚植物園基本構想、また個人庭園も手がけている。民間の園芸活動にも幾つか参画し、1919年(大正8年)大阪市の造園技師衣笠滋三らと園芸会を創設し、雑誌「ガーデン」を発行し啓蒙につとめ、1934年(昭和8年)には大阪公園協会を設立し理事に就任。
1934年(昭和9年)、急性盲腸炎のため、45歳の若さで亡くなる。
[編集] 藤井寺花苑都市構想
花園都市や分散型都市を提唱した大屋のもとに、1926年、近鉄の前身である大阪鉄道から、所有する藤井寺の地域開発の依頼が舞い込む。「藤井寺経営地」という名の分譲住宅地はイギリス式のガーデンシティを目指すように計画。経営地内にメインとなる広幅員の大通りを計画し、その大通りを中心として分譲区画を割り当て設計しさらにこの住宅地には、児童遊園地や運動施設の設置を念頭に設計した。経営地内に遺跡があり、住宅地と予定された運動施設・野球場を調和させた「一大模範的」な都市空間を想定し、上下水道などの基盤整備、大屋のことばで「文化的施設」の導入整備を試みて、計画案を策定している。これによって運動場として藤井寺球場が新設され、また、藤井寺球場の南側に、「教材園」なる自然観察園を設計、花卉や果樹、蔬菜の農園のほかに温室と池、また動物舎など備え昭和2年に起工する。小学生の遠足などを積極的に誘致し大阪市内の小中学生で連日にぎわうが、経営自体はかんばしくなく、昭和8年に廃止された。
[編集] 甲子園花苑都市構想
1923年(大正12年)武庫川の河川改修に伴い、広範な廃川敷地が生じ、沿線にあたる阪神電鉄は約75ヘクタールの払い下げを受ける。これが後の甲子園で、集客施設の開発を行おうと、阪神電鉄海浜リゾート開発を念頭において技術部長の三橋省三がアメリカ合衆国を視察。帰国後早速1922(大正11)年から土地開発を開始。娯楽施設を得意とする建築家設楽貞雄に予定していた運動場とリゾートを中心に添えたプランを作成させる。これを引き継いだのが大屋である。大屋は、大阪新世界を参考にした娯楽施設と住宅地とを組み合わせた新リゾート地の開発プランを提案。プランの概要は1926年『建築と社会』誌上に「二つの花苑都市建設に就いて」という題の論説として発表した。
大屋の計画案「甲子園花苑都市」は、「庭園本位の町」との考えから、参画前に完成していた甲子園野球場とテニスコートなどからなる運動施設の地区と、海水浴場や動物園、ホテルなどを配した海浜娯楽地区とを想定、これらの地区を連絡し交通機関で遊覧できるよう幹線道路を設置、この幹線道路に沿って宅地分譲するという案を策定しているが、阪神電鉄側の開発は、野球場と娯楽施設による集客を中心においていた。計画案は1926(大正15)年に「甲子園大遊園計画」として、武田五一に引き継ぐ。やがて1928年(昭和3年)博覧会を開催。1929年、跡地に甲子園運動場、阪神パーク、1930年には甲子園ホテル、1937年には、観客席のある国際庭球場がオープンさせていく。住宅地は一部大林組に宅地開発を委託、1929(昭和4)年から開発分譲し住宅開発がなされていく。
[編集] その他出版著書
雑誌等にも研究成果や自身の考えを多数執筆しているが、庭園の設計と施工、(1920年)、計画・設計・施工 公園及運動場(1930年. 裳華房)、庭本位の小住宅(1923年)、ほか著書も多数出版。
[編集] その他
- 農学科出身の論客として、常に日本の造園分野でライバル関係であった林学の一派に対したびたび批判を展開する。特に欧米出張の時期に、本多静六、田村剛らの国立公園設立の活動に対して、都市公園の拡充こそが急務と訴えて、新聞紙上で論戦を展開。同時に国立公園についての論文も多数執筆することになる。
- 研究成果によって、都市の公園計画における標準面積を都市の性質や現状に応じて変化すべきものとし、諸外国の計画標準の紹介につとめた。また都市の公園を自然式と人工式との公園に区分した。
[編集] 参考文献
- 故大屋霊城博士年表 「公園」第二巻第一号 大阪公園協会 1925年
- 南海ホークスがあったころ 永井良和・橋爪紳也 紀伊国屋書店 2003年
- 大鐵全史 近畿日本鉄道 1952年
- 追悼雑誌あれこれ 大屋幸世
- 郊外の20世紀、角野幸博、学芸出版社、2000年
- 論客 大屋霊城 - 初代の緑の都市計画家 清水正之 日本造園学会誌「ランドスケープ研究」Vol.60, No.3、1997年
- 歴史的造園遺産2 「花苑都市」構想 近代都市の生活デザイン大屋霊城 丸山宏「ランドスケープのしごと」所収 日本造園学会・学芸出版社 2005年
- 海遊都市、橋爪紳也、白地社、1992年
- にぎわいを創る 近代日本の空間プランナーたち、橋爪紳也、長谷工総合研究所、1995年
- 文明の海洋史観 (中公叢書)川勝平太、中央公論社、1997年