大井オートレース場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大井オートレース場(おおいおーとれーすじょう)は東京都品川区にかつて存在していたオートレース場である。1954年(昭和29年)10月29日に初開催された。
目次 |
[編集] 概要
大井競馬場のオープンから4年後の1954年に誕生した、東京都内唯一のオートレース場である。当初は大井競馬場内で併設する予定であったが、大井競馬場の関係者がこれに反発したため断念せざるを得なくなった。[1]
用地の広さの都合上、新規にダートコースを備えたレース場を建設することが困難だったため、[2]やむなく舗装路面の1周500メートル走路を新規に建設することとなった。
結果的に、大井オートレース場は史上初の舗装路を備えた、当時7つ目のオートレース場として開業したのである。[3]
オープン当初こそ売り上げは振るわなかったものの、その立地条件とアクセスの良さ、そしてそれ以上に、ダートとは異なる舗装路独自の魅力がファンの心を捉え、徐々に人気を拡大していった。最盛期には「ダートの川口、舗装の大井」と呼ばれ、ファンの間でもオートレースの双璧として認知されるまでに成長していった。
1965年には東京モノレール羽田線の大井競馬場前駅も開業し、来場者数は更に向上した。
[編集] 黒い霧事件
1969年から日本プロ野球界を震撼させた黒い霧事件。この事件の衝撃が、大井オートを直撃した。
1970年から、プロ野球選手がオートレースの八百長に参加して逮捕されるという事件が続出した。この際、八百長に加担した現役のオートレース選手19名が逮捕されたのだが、逮捕者の中に「大井のエース」として知られ、日本選手権オートレースを制した名選手・戸田茂司が含まれていたのである。
その地区を代表するエース、それも、当時唯一の特別競走であった日本選手権で、「オートの神様」広瀬登喜夫の外枠からトーヨーの2級車で走り優勝し、賞金王にも輝いた戸田の逮捕は、大井オートに深刻な打撃を与えた。
[編集] 廃止・移転
黒い霧事件に前後して、大井オートの廃止案が持ち上がった。これは売り上げの低迷や赤字などによるものではなく、当時の美濃部亮吉都知事の打ち出した「ギャンブル廃止宣言」によるものだった。
無論、大井オートレース場の選手・関係者・ファンは反対運動を展開したが、東京都の単独開催であったということと、黒い霧事件で負ってしまった悪評もあって、廃止を覆すことは出来なかった。
そして、1973年3月22日。大井オートレース場は19年という短い歴史の幕を閉じたのである。
大井オートレース場が廃止された後、群馬県伊勢崎市が移転先として名乗りを上げた。そして、大井廃止から3年後の1976年10月9日に、伊勢崎オートレース場が誕生した。
因みに、伊勢崎オートレース場の土地及び施設は東京都競馬株式会社が所有している。これは、伊勢崎が新規開設ではなく大井オートレース場からの移転であったためである。
[編集] 選手
上述した戸田茂司以外にも多くの選手が在籍していたが、[4]多くは大井廃止と同時に引退した。大井から伊勢崎に移籍した選手には土田一男(6期、引退)などがいる。
また、船橋と大井の二場に所属している選手も存在した。
[編集] 影響
大井オートレース場の歴史自体は短いものだったが、オートレース界に与えた影響は大きかった。
1967年、危険性の高い従来のダート走路を舗装路に改修する際には、大井オートレース場のコースがモデルとなった。幅員や曲率半径などに若干の差異があるものの、現在のオートレース場のバンクが1周500メートルのオーバルコースで統一されているのはこのためである。
[編集] 余談
開設当初はダート走路用の競走車を使用していた。しかし、舗装路専用のタイヤは開発されておらず、やむなく同じインチ数のリヤカーのタイヤを流用していた。ただ、リヤカー用のタイヤは細く、剛性と耐久性が著しく低かった為、専用タイヤが開発されるとすぐに使用されなくなった。
[編集] 脚注
- ^ 旧船橋オートレース場は船橋競馬場のダートコースを併用していたが、馬場が荒れるなどの問題が頻発していた。
- ^ 当時のダートコースは1周800メートルが基本形であった。大井ほどではないが用地の広さに制限があった旧飯塚オートレース場は、1周600メートルだった。
- ^ 当時は船橋・川口・浜松・飯塚の他に、柳井オートレース場と甲子園オートレース場が存在した。
- ^ 二輪競走の選手以外に、四輪競走の選手もいた。
[編集] 参考文献
日本小型自動車振興会『オートレース三十年史』(1981年)