外濠 (東京都)
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外濠(そとぼり)とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。 (狭義としては後述外濠川と同じものを指す場合もある)
かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。その経路はおおむね、現在の東京都千代田区から神田地域を除いたもの外周である、と言うことができる。 現在は、かつての外濠をおおむね囲む形で、外堀通りが通っている。
1970年代の飯田濠埋め立てまで、濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般である。
「外濠」の定義については広く共有されているとは言えない。本項では便宜的に 「西半部」 「汐留川の一部」 「日本橋川の一部」 「外濠川」 に区分して扱うこととする。「外濠」の語は、文脈や話者によって、これらすべてを含む場合、「日本橋川以外」を指す場合、「外濠川のみ」を指す場合、「日本橋川の一部+外濠川」を指す場合、あるいは「西半部のみ」を指す場合などがあると考えられ、この点は注意が必要である。
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[編集] 外濠の西半部
飯田橋~四ッ谷間の3カ所(牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠。これらは神田川に通じている)、および赤坂見附付近(弁慶濠)に水面が残っている。それ以外の埋め立てられた場所はJRの線路、道路、下駄履き形式の駅ビル(飯田橋駅)などの他、公園やグラウンドなどにも転用されている。
[編集] 外濠西半部を構成する各濠と門(見附)
現在の利用状況、史跡としての現状にもふれつつ、溜池を起点として時計回りに解説する。
[編集] 溜池、赤坂門
- 溜池は、もともと水の湧く沼沢地であり、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだものである。江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失ったとされる。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っている。
- 赤坂門のあった地点には赤坂見附の地名とともに門の石組みが一部遺されている。
[編集] 弁慶濠、喰違見附
- ほぼ往時の形のまま現存している。傍らを首都高速新宿線が走る。弁慶濠の名は明治期に架けられた弁慶橋から命名されたもの。(なお、内濠の一部である現在の桜田濠を古く弁慶濠と呼ぶこともあったようであり、注意が必要である)
- 喰違見附は、他の見附とは異なり、石組みのない簡易的な門であった。したがって枡形も存在しなかったが、かわりにクランク状の道路が作り込まれ、そこから「食い違い」の名を得たという。現在の道路にもその名残りを見ることができる。
[編集] 四谷濠(真田濠)、四ッ谷門
- この部分はもともと台地であり、東西に延びる分水嶺の南北を繋げる形で開削して作られた人工の地形である。現在は南半が上智大学のグラウンド、北半はJRおよび東京メトロ丸の内線・四ッ谷駅の敷地になっている。
- 現在の駅付近には、甲州道中へとつながる西の要衝として、四ッ谷門(四ッ谷見附)が造られていた。石組みがいくらか遺されている。
[編集] 市ヶ谷濠、市ヶ谷門
- 濠を一部埋める形でJRが走るほか、南半は外濠公園の敷地であり、野球場やテニスコートなどがある。東半には水面を遺し、JR市ヶ谷駅からの景観に独特の風致を与えている。
- 市ヶ谷門(市ヶ谷見附)はバラバラになった組石を数個遺すのみで現存しない。地下駅コンコース内に濠の石組みが一部再現されている。
[編集] 新見附濠、新見附橋
- 市ヶ谷門から牛込門(飯田橋)までは、もともとあった川筋を拡張したもの。鉄道(現JR)の開通によってやや幅を狭めてはいるが、現在も広い水面を遺している。市ヶ谷門寄りには釣り堀があり長年親しまれている。土手部分は外濠公園として遊歩道が整備され、春には桜の名所となる。
- なお、新見附橋は明治になってから作られたものであり、新見附という見附が江戸時代に存在したわけではない。
[編集] 牛込濠、牛込門
- 鉄道や外濠公園については上に同じ。大正時代に開業した貸しボート屋が現在も営業している(現在は水際のカフェレストランとして有名)。その脇にはかつて旧牛込駅への通路であった遺構がひっそりと残っている。
- JR飯田橋駅西口近傍には牛込門(牛込見附)の石組みが2基遺されており、江戸三十六見附の中でも最もよく往時の形を遺していると言われる。
[編集] 飯田濠
- 牛込門の下には落し口(小さな滝)があったが、飯田濠までは東から舟が入ることができた。神楽河岸、揚場町、軽子坂(軽子は人足の意という)など荷揚げ場に関連する地名が残っている。1970年代に暗渠化されてしまい、現在はその上に飯田橋セントラルプラザが建っている。
[編集] 神田川(下流部)
神田川 (東京都)も参照
本項の定義上からはこの部分は外濠とは言えないが、水路としては延長線上であり、外濠と同様の門(見附)も備えていた。
- 飯田橋駅東口の近辺で外濠は北からの神田川(旧称江戸川)と合流し、以東も神田川と呼ばれる。この部分は完全に人工的な水路である(本来の川筋は日本橋川(後述)である)。御茶ノ水駅近辺など、両岸に高い崖を見せ、北から南へ延びる尾根筋(神田山)を強引に横断したものであることを物語る。現在まで暗渠化されることもなく、ゆたかな水面を維持し、東京の都市景観の大切な一要素となっている。
- 往時、隅田川までの間にさらに3つの門(小石川門、筋違門、浅草門)があり、また水道橋、昌平橋をはじめいくつかの橋も架けられていた。
[編集] 汐留川の一部
汐留川も参照
溜池の南東端、現在の特許庁のあたりには落し口(水位の段差地点。小さな滝になっている)があり、そこから東は汐留川と呼ばれる水路が東京湾へと通じており、虎ノ門、幸橋門などがあった。その後川も門も失われ、痕跡も遺さない。虎ノ門に近い文部科学省の敷地内ではかつての濠の石組みが発掘されている。
[編集] 日本橋川の一部
日本橋川も参照
日本橋川とは、水道橋駅の西、神田川の小石川橋のたもとから南下し、大手町の北縁から呉服橋北、日本橋を経由し、永代橋付近で隅田川に注ぐ水路である。この川の西半部は外濠の一部を構成している。なお、この部分を外濠川(後述)に含める場合もあるので要注意。
この部分はもと平川と呼ばれ、小石川沼から江戸湾へと注ぐ主要な川筋だった。江戸の都市整備で上流を神田川に奪われ、その後は小さな水路に過ぎなかったが、明治になって再度神田川に接続された。現在は首都高速池袋線に蓋をされた形になっている。
現在の一ツ橋、神田橋、常磐橋のたもとにはそれぞれ一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門があった。また雉子橋のやや南には雉子橋門があった。現在、常盤橋門周辺は小公園(常盤公園)になり、門の遺構を見ることができる。
[編集] 外濠川
かつて呉服橋交差点付近で日本橋川から分流、千代田区と中央区の区界を南下し、土橋交差点付近で汐留川に合流していた流路。 戦後埋め立てられ、水面を失った。 現在首都高速八重洲線の地下車道が走っている区間にほぼ相当する。
[編集] 歴史
徳川家康が江戸幕府を開いた頃は、外濠川近辺は江戸前島と呼ばれる半島であり、それより江戸城寄りには日比谷入江とよばれる入り江が存在した。 幕府は、1606年より江戸城の建築・整備をすると同時に、日比谷入江を埋め立て陸化し、この地に濠を開削して江戸城の外郭を策定[1]。 川の西側は譜代大名の上屋敷が軒を連ねる武家地、東側は町人地として計画され、川にはいくつかの門が設けられた。
江戸時代以来、近年にいたるまで、水運の要としても機能してきたが、戦後、瓦礫処理のために埋め立てが進行。1950年(昭和25年頃)までにその大部分が埋め立てられていたと言われ、1959年(昭和34年)には呉服橋付近を若干残して水路としての外濠は消滅した。
[編集] 外濠川に架けられていた橋
江戸城の構えとしての門はすべて明治時代に撤去されている。水面を失ったため、すべての橋は現存せず、交差点名などの地名を遺すのみである。
- 呉服橋 - たもとに呉服橋門があった
- 八重洲橋 ※明治年間に架橋
- 鍛冶橋 - たもとに鍛冶橋門があった
- 有楽橋 ※明治以降の架橋
- 新有楽橋 ※明治以降の架橋
- 丸之内橋 ※明治以降の架橋
- 数寄屋橋 - たもとに数寄屋橋門があった
- 山下橋 - たもとに山下門があった
[編集] 脚注
- ^ 開幕前の平川移設時に開削されたとの説もある (別本慶長江戸図)。
[編集] 関連河川
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 鈴木理生『幻の江戸百年』(『ちくまライブラリー』57)、筑摩書房、1991年6月。ISBN 4-480-05157-0(のち、『江戸はこうして造られた』と改題してちくま学芸文庫に収録、2000年1月刊。ISBN 978-4-480-08539-9)
- 東京都中央区編『中央区三十年史』 東京都中央区、1980年2月。