土曜ショー
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土曜ショー(どよう - )とは、1966年4月9日~1972年9月30日まで日本教育テレビ(NET:現テレビ朝日)系列で毎週土曜日正午から1時間放送されていたワイドショー番組である。
日本教育テレビは1964年4月から日本初のワイドショー、木島則夫のモーニングショーを、翌年の4月からただいま正午・アフタヌーンショーをスタートさせ成功を収めていたが、これに味をしめた同社は、当時未開拓の分野だった土曜正午の時間帯に3つ目のワイドショー番組をスタートさせた。それが当番組である(ウィークエンドモーニングショーが毎日放送製作によりスタートするのはそれから4ヵ月後である)。
放送開始から1971年3月頃までは先発2番組同様奥様向けのニュースショーであったが、カラー放送化された同年4月頃から公害・天皇制・自衛隊・沖縄といった、当時としては絶対タブーの話題を取り上げるなど硬派の報道番組となり、郵政省(現在は総務省)が問題視するほどの番組となっていった。そして1972年8月12日に放送された「禁止!禁止!それでも歌う!!」が仇となり(内容は下記参照)同年9月30日を最後に当番組は打ち切り、担当ディレクターは配置転換されてしまった。
[編集] 「禁止!禁止!それでも歌う!!」事件の詳細
1972年8月12日に放送された「禁止!禁止!それでも歌う!!」は土曜ショーの打ち切りを決定的としたもので、その内容は「特定の歌を自主規制コードを作って放送禁止にしている業界のナンセンスぶりを皮肉ることで表現の自由について考えよう…」というものであった。しかし、この日出演したフォーク歌手の泉谷しげるが暴走し、すでに禁止となっている「戦争小唄」を一部歌詞を変えて歌い、さらに放送禁止歌を審議する日本民間放送連盟の放送音楽審議会の関係者の目前で(この時点ではまだ禁止に指定されていなかった)「先天性欲情魔」を歌った。しかも生コマーシャルに対して「くだらねぇ!!やるんじゃねぇ!!!!」と暴言を吐いた上、その商品を(岩波書店発行のブックレット№357「戦後史に見るテレビ放送中止事件」によると、その商品は「鶏肉の缶詰」(焼き鳥)だったという)「うめぇわけねぇだろぉっ!」と罵倒し、スタジオを凍りつかせた(「ディレクターは左遷され、泉谷しげるも出演禁止になった。しかし後年1979年のテレビ朝日「戦後最大の悲劇吉展ちゃん殺人事件」の犯人小原保役を好演した)。結局これが引き金となって同年9月30日に打ち切りとなり、最終回のタイトルは「ああ、愛しき哉テレビジョン」という、民間放送各局の問題番組のディレクターを集めた座談会だった(この内容も相当物議を醸した)。
[編集] ネットしていた局
- 日本教育テレビ〔NET:現在はテレビ朝日〕
- 北海道テレビ(1968年12月7日放送分からネット開始)
- 青森テレビ(1969年12月6日放送分からネット開始)
- テレビ岩手(青森テレビと同じ)
- 秋田テレビ(1969年10月4日放送分からネット開始)
- ミヤギテレビ(1970年4月4日からネット開始)
- 福島中央テレビ(ミヤギテレビと同じ)
- 新潟総合テレビ(1968年12月28日放送分からネット開始)
- 名古屋放送〔現在はメーテレ〕(放送開始から1969年3月29日まで)→中京ユーエッチエフテレビ→中京テレビ(1969年4月5日から終了)
- 毎日放送
- 日本海テレビ
- 瀬戸内海放送(中京テレビでの放送開始日と同じ日からネット開始)
- 広島ホームテレビ(1970年12月5日からネット開始)
- 九州朝日放送
- テレビ大分(ミヤギテレビと同じ)
- テレビ熊本(中京テレビと同じ)
- 鹿児島テレビ(中京テレビと同じ)