土方雄豊
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土方 雄豊(ひじかた かつとよ、寛永15年11月19日(1638年12月24日) - 宝永2年7月1日(1705年8月19日))は、江戸時代前期の外様大名。第3代伊勢国菰野藩主(1万2000石)。
土方掃部氏久(初代菰野藩主土方雄氏の次男)の三男。母は松本藩主水野忠清の娘。子は土方豊高(長男)、土方久長(次男)。通称は清十郎、主殿助、杢助。官位は従五位下・備中守、市正。
寛永15年(1638年)、京都に生まれた。 慶安3年(1650年)5月11日に伯父にあたる第2代菰野藩主土方雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、承応元年(1652年)2月8日に家督を相続し、15歳にして第3代菰野藩主となった。寛文元年(1661年)12月13日にはじめて将軍徳川家綱に拝謁。28日に従五位下・備中守に叙任した。寛文2年(1662年)4月にはじめて領地菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名としての活躍し、将軍家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に鳥羽藩主内藤和泉守忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。
天和3年(1683年)には院使饗応役を命じられているが、このとき赤穂藩主浅野内匠頭長矩が相方の勅使饗応役をつとめていた。指南役はやはり吉良上野介義央であった。なお大河ドラマ『元禄繚乱』ではこの時の吉良上野介は浅野を可愛がって、土方だけを苛めていたが、本当かどうかは不明。そもそも土方のほうが吉良よりも年長者のはずである。いずれにしてもどうやらこの時に浅野と土方は親しくなったようで、浅野内匠頭の養子浅野大学長広(長矩の実弟)は、土方雄豊の養女(雄豊の長男・豊高の娘)と縁組することになる。
宝永2年(1705年)7月31日に死去。享年68。菰野の見性寺に葬られた。法名は通霄院殿玄峯孤順大居士。家督は長男・豊高が父に先立って死んでいたため、孫(豊高の長男)の土方豊義が継いだ。
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