土方雄高
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土方 雄高 (ひじかた かつたか、慶長17年(1612年) - 慶安4年9月8日(1651年10月22日))は、江戸時代前期の外様大名。第2代伊勢国菰野藩主(1万2000石)。
伊勢菰野藩の初代藩主土方雄氏の長男。母は織田信雄の娘八重姫(玉雄院)。正室は掛川藩主北条氏重の娘・鶴姫。子は娘(土方雄豊正室)、娘(永井直右正室)、娘(脇坂安道室)の女子3人。初名は雄春。通称は勝五郎、杢助。官位は従五位下丹後守。
江戸で生まれたが幼い頃に菰野へ送られ、そこで育てられた。寛永9年(1632年)にはじめて将軍徳川家光に拝謁。寛永12年(1635年)3月に父の隠居により家督を相続し、第2代菰野藩主となる。馬場や焔硝倉などを設置したり、家臣団の住居を定めたり、また商工業者を集めるなどして菰野陣屋やその城下の設備をすすめ、菰野藩諸法の制定も積極的に行った。また領内に見性寺を建立して以降ここを土方家の菩提寺とした。さまざまな面で菰野藩政の基礎を築いたといえる。幕府の仕事としては院使や朝鮮通信使の饗応役をしばしば勤めている。慶安4年(1651年)9月8日に死去した。享年40。菰野見性寺に葬られた。法名は不見院殿形道宗無大居士。家督は弟土方氏久の三男・雄豊が継いだ。
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