喜味こいし
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喜味 こいし(きみ-、1927年11月5日 - )は、日本の漫才師、俳優。実兄の夢路いとしと共に漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし(いとし・こいし)」のツッコミとして活躍した。
横浜市生まれ。本名は篠原 勲(しのはら いさお)。
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[編集] 来歴・人物
上方漫才を代表する人物であるが、横浜出身とされているのは、一家が旅回りの芸人一家であったからたまたま横浜で生を受けたという事情によるものである。横浜以外にも、全国津々浦々の地を少年時代からまわっていた。旅回り中に生まれたため出生届の提出が遅れ、戸籍上の生年月日は1927年11月5日となっているが、本当の生年月日は1927年8月6日であると本人が発言している。
1940年に漫才師の名門とされる荒川芳丸一門に実兄の夢路いとし(本名:篠原博信 入門時の芸名:荒川芳博)とともに入門し吉本興業から「荒川芳坊」という芸名でデビュー(「喜味こいし」に改名する前に一時父親の姓“山田”を使って「山田勲」と名乗っていた。兄いとしは「山田博」)。それからは全国各地にあった吉本が運営する寄席(ミナミの南陽館など)で稽古を積む。1945年8月6日、広島市の陸軍兵舎にて被爆。建物は一部崩壊して梁の下敷きとなり、目が覚めたのは7時間後だったという。手を動かしたことで奇跡的に救出され陸軍病院で終戦を迎える。
戦後、漫才作家・秋田實に師事して「夢路いとし・喜味こいし」にコンビ名を改め、「いとこい」として親しまれた。その後上方演芸界を代表するしゃべくり漫才の第一人者として長く人気を集め、上方お笑い大賞、上方漫才大賞、芸術祭奨励賞など数多くの表彰歴を誇った。「ぼくたちは常にナンバー2」がモットー。肩の力を抜き、時代・世相を柔軟に取り入れる自然さが持ち味。芸名を改名するに当たって、この「いとし・こいし」という芸名を芳博が考え、じゃんけんでどちらの芸名を取るか決めた。そして芳坊がこいしの芸名を付けることにしたが、「屋号=苗字がいるだろう」ということで、当時の流行歌に「君恋し」という曲があったのになぞらえて「喜味こいし」としたという経緯がある。「がっちり買いまショウ」の司会でも有名。
落ち着いたその芸風は、多くの後輩芸人達にも取り入れられている。上岡龍太郎はこいしのツッコミを理想とし、明石家さんま以下の世代は「いとこい先生」と慕い、二人から多くの芸を学ぼうと躍起になっていた。島田紳助はいとし・こいしを研究し、「できない」と判断して若者に特化したスピード漫才にたどり着いた。
関東の芸人からも多くの尊敬を集め、ビートたけしは、いとしこいしが自身の番組にゲストで出演した際「いとこい師匠は自分が駆け出しの頃から雲の上の人。同じ舞台に上がるのはおこがましい」と発言し、志村けんも「同じネタを何度見ても面白いのは凄い。間とタイミングが真似できない」、爆笑問題は掴みネタや客いじりなど一切なしの本ネタだけのスタイルを「芸人として格好いい」としている。
1995年に紫綬褒章、1998年秋には勲四等旭日小綬章をそれぞれ受章し、1999年11月には大阪市指定無形文化財に指定。
2003年9月にいとしが逝去。直後に行われた記者会見にて「これでいとこい漫才は終焉です」と漫才引退を宣言。現在はテレビのコメンテーターや講演活動に力を注いでおり、2004年8月の原水爆禁止世界大会(原水爆禁止日本協議会主催)で被爆体験の講演、10月から、関西テレビのローカルワイドショー「痛快!エブリデイ」の毎週金曜日にレギュラー出演中。また8月の終戦記念日前後に放送されるNHK大阪放送局製作「関西発ラジオ深夜便」でも自らの漫才人生や戦争経験などを交えてゲスト出演することも恒例となっている。2005年には次女の喜味家たまご(本名:篠原恒世)と共演した。現在は白髭を蓄えて好々爺の外見になっている。
俳優としても活動しており、「夫婦善哉」他多数の舞台に立っている。
所属事務所はデビュー当時は吉本興業であったが、戦後フリーになり、秋田實の宝塚新芸座から上方演芸を経て、東宝芸能関西に所属する。東宝入りは南都雄二の斡旋によるものであり、当時の所属タレントは「いと・こい」のみだったという。この事務所は大宝芸能から大宝企画となるが、いとしの逝去を機に会社を清算。このため2006年10月からは和光プロダクションの所属となっている。
現在は一切漫才を行なっていないが蝿取り(手ぬぐいを頬被りし蝿に扮して座布団を蝿取紙に見立てとらえられる余芸、元は立花家扇遊や佐賀家喜昇が演じた。)の芸を上方演芸ホールで演じた。
[編集] 漫才
こいしは男前の容姿と独特のガラガラ声で、兄いとしのひょうひょうとして洗練されたボケに鋭く突っ込んでいく様が絶品であった。ツッコミが一般にボケを叱る、という態度をとることからよく「怒る・怒り顔」というイメージがあり、下手にすると流れを止めてしまうことがあるが、彼の場合は自然な笑顔で「もしもし...」とやり、ネタの流れを止めるどころかいとしのボケに潤滑油を差す役割になることから、そのツッコミは名人芸とされる。「ほうほう」「それでどないしたんや」などテンポのいい合いの手で、いとしのボケに繋げるテクニックも秀逸である。
基本的にいとしがボケでこいしがツッコミだが、戦後しばらくいとしがツッコミでこいしがボケの時期があり、後年も両者はまれにボケ・ツッコミを入れ替わるという離れ業ができた。ちなみに中田ダイマル・ラケットもそうであったように、ネタの上で兄弟であることを明かすことはほとんどなかった(ただし例外的に「じーっと考えたら君と僕は兄弟や」というネタもあった)。代表作としては「交通巡査」「親子丼」「こいしさんこいしさん」「もしもし鈴木です」「ジンギスカン」などがある。
こいしが序盤に、いとしに対し「なぁなぁ、君んとこの嫁はん元気か?」というネタフリから本編に入るパターンが定番であった。逆にいとしが「鬼瓦で思い出したが君んとこの嫁はん元気か?」と聞くパターンがある。こいしの妻はしばしば恐ろしい形相の物に例えられるが、実際は美人である。
ネタの一例(い→いとし、こ→こいし)
い:ボク、こないだ単車買いましてん。
こ:ほうほう。
い:あれは便利なもんですな。
こ:そうやねぇ、なんちゅうても小回りが利く。
い:こないだも御堂筋を甘い~甘い~ゆうて、そら楽やったで。
こ:ちょっと待て、甘い甘いてどんな単車や。
い:ん?甘い~甘い~っちゅうて…あ!スイ~っとスイ~っとやったわ。
こ:あほか!
[編集] 主な出演作(俳優)
[編集] 映画
- 第三の悪名(1963年、大映) 夢路いとしとともに入墨師役で出演。
- 星影のワルツ 2007年 写真家若木信吾の祖父・琢次役(主演)
- 子猫の涙 メキシコオリンピックボクシング銅メダリスト森岡栄治の父・作次郎役 2007年下半期公開予定