吉岡長増
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吉岡 長増(よしおか ながます、? - 天正元年(1573年)?)は戦国時代の武将。豊後大友氏の一族吉岡氏当主。吉岡鑑興の父。左衛門大夫。越前守。三河守。宗歓。大分郡高田庄の鶴崎城・千歳城主。
吉岡氏は大友氏の一族である野津氏の庶流と伝わるも、長増以前の系譜ははっきりしない。
[編集] 義鑑の時代
大友義鑑・大友義鎮(宗麟)父子の二代にわたって仕えた。加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録があり、1532年に陶興房が肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し吉岡長増は後陣の大将として四千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。翌年1533年大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。吉岡長増が大将となってこれを撃退した。義鑑には冷遇されていたのか、1534年に解任されて以降、目立った活動はない。長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した1550年のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。
[編集] 義鎮の時代
長増は豊前方面の政務を担当し、菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には全て参加した。1557年より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、1569年に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。長増はこれに対し、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て、大内氏の残党である大内輝弘に旧臣を集めさせて資金的に支援することで、筑前に出兵しているために兵がほとんどいない毛利領の周防に侵攻させた。宗歓は輝弘を送るにあたり、海域を支配し、障害である村上水軍大将の村上武吉を九州の筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らすことに成功したが、(武吉が寝返ったのは)元就の策略では?と疑い大友水軍の若林鎮興に筑前国のの毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上武吉の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させたという。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである。長増はその後も引き続き、豊前方面の政務を任されたという。
[編集] 宗歓の立場
1573年ごろに没したと推測されている。宗歓はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である。」と書き送っている。およそ享年は80歳を超えると思われる。