古田篤良
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古田 篤良 | ||
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名前 | ||
カタカナ | フルタ アツヨシ | |
ラテン文字 | FURUTA Atsuyoshi | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1952年10月27日(55歳) | |
出身地 | 広島県 | |
身長 | 174cm | |
体重 | 70kg | |
選手情報 | ||
ポジション | DF | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1975-1984 | 東洋工業 | ? (?) |
代表歴 | ||
1971-1978 | 日本 | |
古田 篤良(ふるた あつよし、1952年10月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手。
目次 |
[編集] 来歴
現役時代のポジションはFB(フルバック)。守りの要として活躍し、守備にとどまらず高いキック力で攻撃の起点にもなった。
小学5年生からサッカーをはじめ、広大付属高校時代は福原黎三から指導を受けた。1971年、日本で行われた第13回アジア・ユース選手権では守備的なハーフバックとして、高田一美・奥寺康彦・永井良和らとプレーしている。
代表デビューは、早稲田大学1年時の1971年8月13日アイスランド代表戦。わずか18歳292日での代表デビューで、これは1998年に市川大祐に破られるまで、長年にわたり日本代表の国際Aマッチ最年少出場記録だった。その後も日本代表として1974年ドイツW杯予選、1976年モントリール五輪予選、2度のアジア大会に出場した。
卒業後は東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍。1978年には渡辺由一・安原真一らとともに天皇杯決勝進出に貢献。
選手引退後は社員としてマツダに勤務している。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1975 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1976 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1977 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1978 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1979 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1980 | 東洋 | JSL1部 | |||||||||
1981 | マツダ | JSL1部 | |||||||||
1982 | マツダ | JSL1部 | |||||||||
1983 | マツダ | JSL1部 | |||||||||
1984 | マツダ | JSL2部 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | |||||||||
総通算 |
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- ワールドカップ西ドイツ大会予選
- アジア競技大会(1974,1978)
- アジアカップ(1976)予選
- モントリオールオリンピック予選
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 0得点(1971-1978)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1971 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
1972 | 4 | 0 | 9 | 0 | 13 | 0 |
1973 | 3 | 0 | 3 | 0 | 6 | 0 |
1974 | 5 | 0 | 11 | 0 | 16 | 0 |
1975 | 11 | 0 | 5 | 0 | 16 | 0 |
1976 | 2 | 0 | 3 | 0 | 5 | 0 |
1977 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1978 | 6 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 |
通算 | 32 | 0 | 34 | 0 | 66 | 0 |
[編集] 参考文献
- サッカーマガジン 1975年8月25日号