千田貞敏
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千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年8月25日)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。死後、一階級特進の海軍中将。第13海軍航空隊司令時には、同時期に第12海軍航空隊司令に三木守彦がいるなど、海軍航空隊黎明を支えた人物の中心。
[編集] 略歴
鹿児島県出身。府立一中を経て、海軍兵学校40期。横須賀航空隊1期生。日中戦争開戦時以降は渡洋爆撃に参戦、南支にて海軍第二連合航空隊第13航空隊司令として兼子正中尉率いるわずか4機の当時新鋭の九六式艦上戦闘機にて敵18機と交戦の末、相手9機撃墜の戦果。1938年3月1日、逓信省において航空局改組により初代航空官に抜擢される。
以後、1941年3月15日、霞ヶ浦航空隊司令を経て、太平洋戦争開戦にて、1942年11月1日、第14連合航空戦隊司令官、1944年5月1日、第28根拠地隊司令官に着任。従来からの島嶼伝いでの「浮沈空母構想」による飛行場建設、警備などに携わる。阿南惟幾の方針により到着早々根拠地隊のいるビアク島にて米軍を迎え撃つこととなり、相手米軍の火焔放射攻撃に耐え、1ヶ月あまりの壕での交戦の末、戦死した。