北条藩
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常陸国に存在した北条藩(現在の茨城県つくば市)については、常陸北条藩を参照のこと。
北条藩(ほうじょうはん)は、安房国(現在の千葉県館山市北条)に存在した藩。
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[編集] 藩史
駿河大納言と称された徳川忠長の家老として仕えていた屋代忠正は、1万石を領していた。忠長改易の連座によって忠正は蟄居処分に処せられていたが、やがて赦免されて寛永5年(1638年)2月8日、安房国内に1万石を与えられて北条藩を立藩した。忠正は寛文2年(1662年)4月24日に死去し、後を養嗣子の屋代忠興が継いだ。しかし忠興は在位1年足らずの翌年1月6日に死去。その後を養嗣子の屋代忠位が継ぐ。ところがこの忠位の代から小藩さながらの悲しさとも言ってよい財政難が起こった。忠位は百人組頭・大番頭などを歴任したが、小藩ではそのための出費が著しかったのだ。このため正徳元年(1711年)、藩内で大規模な百姓一揆が発生した。有名な万石騒動である。忠位は財政再建のため、この年に職を辞して出費を節減し、さらに川井藤左衛門という男を登用して本格的な藩政改革を行なおうとした。ところが川井は9月、年貢増徴を主とした財政再建を行なおうとしたために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中の秋元喬知にまで訴える有様であった。これに危機感を抱いた川井は11月26日、農民側の代表者3名を捕らえて死罪とし、さらにその妻子を追放して家財を全て没収するという強硬手段をとったが、農民側は勢いを盛り返して再度、幕府に訴え出た。ことここに至って幕府の裁断により、正徳2年(1712年)7月22日、川井父子は死罪、藩主・忠位は失政を咎められて改易となり、ここに北条藩は廃藩となった。
享保10年(1725年)10月18日、水野忠定が信濃国から安房北条に1万2000石で移封されたため、再び北条藩が立藩する。忠定は享保20年(1735年)6月5日、丹波国内に3000石を加増された。第2代藩主・水野忠見は奏者番・大番頭を歴任し、第3代藩主・水野忠韶も奏者番・大番頭を経た文化5年(1808年)11月20日に若年寄となり、文政8年(1825年)には城主格となった。その2年後の文政10年(1827年)、居館を上総国市原郡椎津村に移したため、以後、水野氏は鶴牧藩として存続し、北条藩は廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 屋代(やしろ)家
[編集] 水野(みずの)家
1万2000石→1万5000石。譜代。(1725年-1827年)。
藩祖・水野忠位(ただたか)<従五位下。肥前守>