秋元喬知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋元 喬知(あきもと たかとも、慶安2年(1649年) - 正徳4年8月14日(1714年9月22日))は、江戸時代の大名、政治家、老中(老中在職は元禄12年(1699年) - 宝永4年(1707年))。甲斐国谷村藩第3代藩主、武蔵国川越藩初代藩主。館林藩秋元家4代。
下総佐倉藩主で老中を務めた戸田忠昌の長男。母は谷村藩主・秋元富朝の娘。正室は秋元忠朝の次女。子に秋元武朝(長男)、秋元喬房(次男)、娘(朽木稙元正室)、娘(秋田就季正室)、娘(戸田忠昌養女)。
男子のなかった秋元富朝が娘を戸田家に嫁がせて生まれた外孫で、戸田家から秋元家に養子に入る。奏者番から寺社奉行、若年寄、老中を歴任する。喬知は将軍綱吉、家宣の二代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺、寛永寺中堂、厳有院(家綱)仏殿などの造営奉行、元禄地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍綱吉に進講することもあった。
また、新井白石・間部詮房の正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も間部・白石派として閣内に隠然たる影響力を残した。宝永5年(1708年)には禁裏造営奉行を、また新井白石が発議した正徳金銀鋳造の総奉行を担当している。
谷村藩主時代の秋元氏は用水堰の開発や郡内織の生産奨励などを行っているが、喬知時代には河口湖から新倉村(富士吉田市)まで用水を引く新倉掘抜を着工したと言われている。
墓所は総社光巌寺。
[編集] 経歴
- 1657年(明暦3年) 養父富朝没後、9歳で遺領の甲斐谷村藩1万8,000石を継ぎ、4代将軍家綱に謁する。
- 1677年(延宝5年) 奏者番
- 1681年(天和元年) 寺社奉行兼担
- 1682年(天和2年) 若年寄
- 1699年(元禄12年) 老中
- 1704年(宝永元年) 元禄地震復興に功績ありとして3万2,000石加増のうえ武蔵川越藩に転封。都合5万石所領。
- 1707年(宝永4年) 老中退任
- 1711年(正徳元年) 1万石を加増。総計6万石。
- 1714年(正徳4年) 死去。享年66。
[編集] 官職位階履歴
|
|
|
|
|
|