秋元喬房
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 天和3年(1683年) | |||
死没 | 元文3年9月5日(1738年10月17日) | |||
別名 | 源之助(幼名)、尚朝(初名) | |||
墓所 | 群馬県前橋市の光巌寺 | |||
戒名 | 智山義勇泰元院 | |||
官位 | 従五位下、但馬守 | |||
幕府 | 江戸幕府詰衆→奏者番 | |||
藩 | 武蔵川越藩主 | |||
氏族 | 秋元氏 | |||
父母 | 父:秋元喬知、母:秋元忠朝の娘 | |||
兄弟 | 秋元武朝、秋元喬房 | |||
妻 | 正室:奥平昌章の娘 | |||
子 | 娘(秋元喬求正室)、養子:秋元喬求 |
秋元 喬房(あきもと たかふさ)は、武蔵川越藩の第2代藩主。館林藩秋元家5代。
天和3年(1683年)、初代藩主・秋元喬知の次男として生まれる。元禄10年(1697年)12月18日に従五位下・伊賀守に叙位・任官する。元禄12年(1699年)12月6日に詰衆に任じられる。正徳4年(1714年)、父の死去により家督を継いで川越藩第2代藩主となる。
享保8年(1723年)9月18日に奏者番に任じられる。享保10年(1725年)12月7日に但馬守に遷任する。元文3年(1738年)9月5日に死去。享年56。後を養子の秋元喬求が継いだ。
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