北条氏貞
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 元禄16年(1703年) | |||
死没 | 宝暦8年4月27日(1758年6月2日) | |||
別名 | 亀之助(幼名) | |||
戒名 | 広覚院殿信艘義堅大居士 | |||
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 | |||
官位 | 従五位下、美濃守 | |||
藩 | 河内狭山藩主 | |||
氏族 | 後北条氏 | |||
父母 | 父:北条氏朝、母:秋月種信の娘・竹 | |||
兄弟 | 北条氏貞、民部、北条氏副、妹(稲垣定享室) 妹(安藤次由室)、北条氏従、北条氏比 妹(本多慮信室)、妹(土方雄房婚約者) |
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妻 | 正室:大関増恒の娘・岩 | |||
子 | 娘(永井直国正室)、北条氏彦(長男)、 本多正喬(次男)、北条氏挌(三男)、 娘(石原正範室)、天王寺恭順 |
北条 氏貞(ほうじょう うじさだ)は、河内狭山藩の第6代藩主。
元禄16年(1703年)、第5代藩主・北条氏朝の長男として生まれる。享保20年(1735年)に父が死去したため、家督を継いで第6代藩主となる。しかし惰弱な人物で、小田原以来の後北条氏譜代の家臣による藩政の専横を抑えきれず、藩政の腐敗が進んだ。窮余の一策として1代家老に田中仙右衛門を登用して藩政改革を行なおうとしたが失敗し、この家臣団との抗争は、宝暦8年(1758年)4月27日に氏貞が死去し、子の北条氏彦が後を継いですぐに起こった狭山騒動の遠因となった。享年56。
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