勧修寺政顕
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勧修寺 政顕(かじゅうじ まさあき、享徳元年(1452年) - 大永2年7月28日(1522年8月19日))は、安土桃山時代の公家(公卿)。
堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の9代当主。
[編集] 経歴
実子に権大納言・勧修寺尚顕、右兵衛督・町顕量(宮内卿・町顕基の養子)、大隅守・畠山家俊(西谷内畠山氏)の室、白山本宮惣長吏・澄祝の室、内大臣・広橋兼秀の室、修理大夫・畠山義総(能登畠山氏)の室、典侍・広橋国子(広橋兼秀の養女、後奈良天皇入宮)などがいる。
晩年は、子の尚顕共々、娘婿の畠山義総を頼り京を離れ能登国(または加賀国)で出家し、真顕と号した。
極位極官は、従二位・権中納言。