畠山義総
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 延徳3年(1491年) | |||
死没 | 天文14年7月12日(1545年8月19日) | |||
別名 | 次郎(通称) | |||
諡号 | 徳胤 | |||
戒名 | 興臨院殿伝翁徳胤 | |||
官位 | 従四位下、左衛門佐。修理大夫 | |||
氏族 | 畠山氏 | |||
父母 | 父:畠山慶致、養父:畠山義元 | |||
子 | 畠山義繁、畠山義続 娘(六角義賢室) |
畠山 義総(はたけやま よしふさ)は、能登の戦国大名で、能登畠山氏の第7代当主。能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られる。
延徳3年(1491年)、能登畠山氏の第5代当主・畠山慶致の子として生まれる。祖父で第3代当主であった畠山義統が死去した後、能登畠山氏では内紛が起こり、それによって第4代当主であった畠山義元は追放され、代わって第5代当主に畠山慶致が擁立された。しかし永正3年(1506年)に義元が第6代当主として復帰したため、父の慶致は隠居し、その実子である義総が義元の養子となり、後継者に指名された。
その後は義元と共同統治を行なって一向一揆を鎮圧し、畠山家当主の権力強化による守護大名から戦国大名へと脱皮にも成功した。永正12年(1515年)の義元の死去により、家督を継いで第7代当主となる。しかし大永5年(1525年)までは父・慶致と共に共同統治を行なった。
義総は積極的な国作りを行ない、居城を七尾の城山に移して五大山城と称される名城・七尾城を建設した。この七尾城は後にあの上杉謙信の猛攻を受けても1年以上耐え切ったことを見てもわかるように、天下でも屈指の堅城として讃えられた。また、義総は優れた文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、さらには商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は、小京都とまで呼ばれるほどに発展したという。
天文14年(1545年)、畠山家本家の畠山稙長が死去し、稙長は家督の譲渡を義総の子・畠山義続にと申し出てきた。義総は畠山氏を統一する良い機会ととらえて、その実現を図ったが、自身も7月12日に病死してしまい、これは実現されること無く終わってしまった。享年55。後を次男の畠山義続が継いだ。
義総の時代は、能登畠山氏の全盛期であった。しかし義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退してゆくこととなった。
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