畠山義統
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時代 | 室町時代後期 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 明応6年8月20日(1497年9月16日) | |||
戒名 | 大寧寺殿大彦徳孫大禅定門 | |||
幕府 | 室町幕府能登守護・御相伴衆 | |||
官位 | 左衛門佐 | |||
氏族 | 畠山氏 | |||
父母 | 父:畠山義有 | |||
子 | 畠山義元、畠山慶致 |
畠山 義統(はたけやま よしむね)は、室町時代後期の能登の守護大名。能登畠山氏の第3代当主。
第2代当主・畠山義忠の嫡男・畠山義有の嫡男として生まれる。永享9年(1437年)に父が戦死したため、祖父の義忠より世子として指名された。そして祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。ただし、若年のため、祖父による補佐をしばらくは受けた。
応仁の乱では畠山義就を支持して山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元や畠山政長の東軍と戦った。応仁の乱が終わると能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。1479年頃には、越後守護上杉房定と婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てる。長享元年(1487年)、加賀で一向一揆が起こると、富樫政親を支援した。
やがて、延徳2年(1490年)に能登門徒による義統暗殺計画が発覚し、義統は越後の長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦する。だが、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領細川政元の支援を受けており決着はつかなかった。
また、義統は文化人でもあり、応仁の乱で荒廃した京都から多くの文化人が能登に下向してきた。このため、能登は大いに繁栄した。明応6年(1497年)8月20日、鹿島郡府中の屋敷において死去。跡を嫡男の畠山義元が継いだ。
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