広橋兼秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広橋 兼秀(ひろはし かねひで、永正3年(1506年) - 永禄10年8月5日(1567年9月17日)は、戦国時代の公家。父は広橋守光。息子は広橋国光。
永正7年(1510年)従五位下に叙爵。その後蔵人頭、右大弁を歴任して、天文4年(1535年)正四位上参議に任官した。翌年には従三位権中納言。天文11年(1542年)従二位権大納言となるが、翌年には子の国光に譲った。その後、弘治3年(1557年)内大臣となるが、間もなく隠居した。永禄10年(1567年)逝去。
また武家伝奏としても活動しており、天文5年(1536年)周防国の大内義隆の下へ下向している。その他賀茂伝奏、春日祭上卿。