前田斉泰
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前田 斉泰(まえだ なりやす、1811年8月28日(文化8年7月10日) - 1884年(明治17年)1月16日)は、加賀藩の第12代藩主。第11代藩主・前田斉広の長男。母は八百(小野木氏・栄操院)。正室は徳川家斉の娘・溶姫(偕子・景徳院)。婚約者に松平頼儀の娘・律、前田利幹の娘・銓、佐竹義和の娘・利瑳。側室に明鏡院。
子に前田慶寧(長男)、釣次郎(次男、早世)、前田利義(基五郎・前田利平養子・三男)、池田慶栄(亀丸・喬松丸・利順、池田慶行養子・四男)、前田利行(豊之丞・兄前田利義養子・五男)、純六郎(六男、早世)、前田利鬯(桃之助・利益・兄前田利行養子・七男)、前田直会(静之助・家臣前田直良養子・八男)、前田利同(茂松・秱松前田利声養子・十一男)、前田利武(十二男)、洽子(二条基弘室)、娘(浅野長道正室のち岡部長職継室)。
幼名は勝千代。勝丸。犬千代。初名は利侯・利康・利泰。官位は正二位、加賀守。権中納言。文政5年(1822年)に父・斉広から家督を譲られて藩主となる。文政7年(1824年)に父が死ぬまでは実権を握られていたが、父が死ぬと親政を開始し、藩政改革に取りかかった。
最初は保守的な改革であったが、やがてペリー来航などで開国論などが囁かれ始めると、いわゆる革新派を登用して洋式軍制の導入に取り組むなど、藩政改革を革新的に行なった。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変では嫡男の前田慶寧に兵を預けて御所を守らせていたが、これが無様にも敗れて退京してきたため、怒った斉泰は慶寧を謹慎させ、家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じている。そして、これを契機として慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多正均(本多正信の子孫)と協力して徹底的に弾圧した。
慶応2年(1866年)、慶寧に家督を譲って隠居したが、実権は相変わらず握っていた。そして、加賀藩を薩摩藩や長州藩のような国政に関わる重要な立場に置くべく裏工作に専念したが、片腕の参謀であった本多正均が明治2年(1869年)に暗殺されるなどということもあって、裏工作は実らずに終わった。
明治17年(1884年)、74歳で死去した。贈名は温敬公 法名は金龍院殿文古雲遊大居士。 第二次世界大戦後、インドネシアで殉難死した前田利貴陸軍大尉(戦死扱いで進級しているとすれば中佐か)は玄孫にあたる。
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