分部光嘉
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文21年(1552年) | |||
死没 | 慶長6年11月29日(1601年12月23日) | |||
改名 | 四郎次郎、光嘉 | |||
別名 | 與三左衛門 | |||
戒名 | 香徳院殿花林浄栄大居士 | |||
官位 | 従五位下右京亮 | |||
主君 | 織田信長→信包→豊臣秀吉 | |||
藩 | 伊勢国上野藩主 | |||
氏族 | 細野氏→分部氏 | |||
父母 | 父:細野藤光、母:峰道正の娘 | |||
兄弟 | 藤敦、分部光嘉 | |||
妻 | 正室:分部光高の養女 | |||
子 | 光勝、娘(長野正勝室)、娘(渡辺久勝室) |
分部 光嘉(わけべ みつよし)は、戦国時代の武将。伊勢上野藩初代藩主。分部家初代。北伊勢に勢力を持つ長野氏の一族、細野藤光の次男。正室は分部光高の養女(分部光恒の娘)。通称は與三左衛門。官位は従五位下右京亮。同じ長野一族の分部氏の当主・分部光高に実子が無かったため、その養嗣子として後を継ぐこととなった。
[編集] 生涯
天文21年(1552年)、細野藤光の次男として生まれる。幼名は四郎次郎。
永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻して来ると、兄の藤敦と違って和睦を主張し、信長の弟、織田信包の長野氏養子入りを進めるなど、織田氏に従属する立場を貫いている。信長没後は織田信包や豊臣秀吉に仕えた。
元亀元年(1570年)、織田信包の指示により、津城の仮城として伊勢上野城を築城した。信包が完成した津城に移った後は、上野城は津城の出城となり、その後豊臣秀吉から1万石を受けて、光嘉は独立した伊勢上野城主となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると徳川家康に与して安濃津城を西軍の伊勢侵攻から守り、戦後、その功により2万石に加増された。しかし翌慶長6年(1601年)11月29日、関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで死去した。享年50。法名:香徳院殿花林浄栄大居士。
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