八丈小島
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八丈小島 | |
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航空写真(島の主部・1978年) |
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座標 | 北緯33度07分31秒 東経139度41分18秒 |
面積 | 3.08km² |
海岸線長 | 8.70km |
最高標高 | 616.8m |
所在海域 | 太平洋(フィリピン海) |
所属国・地域 | 日本(東京都) |
八丈小島(はちじょうこじま)は伊豆諸島の島。行政上は東京都八丈町に属する。離島のモデルとしても小学校等の教科書で紹介される事もある。
目次 |
[編集] 地理
東京の南方海上287km、八丈島の西約7.5kmにある海食崖に囲まれたピラミッド状の島。標高616.6mの太平山がそびえる。かつては人が住んでいたが、1969年以降無人島となっている。現在では学校跡などが残るのみ。これらを活かし、映画『バトル・ロワイアル』のロケ地ともなった。
周辺はスキューバダイビングのポイントであり、磯釣りの為に八丈島から漁船で渡る釣り人も多い。ただし、夜間に緊急事態が発生しても救助が出来ない事から、島内での宿泊は禁止されている。
[編集] 歴史
室町時代には既に住民が定住していたと考えられている。なお、平安時代末期の武将、源為朝がこの島で自害したとの伝説が残っている。八丈本島同様流刑地とされた時代もあった。本島との間に海流があるため、いかだや小舟では脱出不能とも言われ、特に重い刑を受けた者が流されていた。
江戸時代から島の北西部に鳥打、南東部に宇津木の2村が置かれていた。1908年(明治41年)、八丈島の各村にも町村制が施行されたが、八丈小島には施行されず、そのまま1947年(昭和22年)の地方自治法施行迄名主制が存続したという、極めて珍しい歴史を持つ。なお、両村の名は明治期以後も存続したが、上記の通り町村制に基づく法的な正式名称ではなく、あくまで通称だった。
その後も宇津木村は1955年(昭和30年)に八丈村と合併するまで人口が50人程度だった。そのため、地方自治法94条・95条の規定に基づき、村議会を置かず、20歳以上の選挙権を有する者によって村政に関する議決を行う「町村総会(地方自治法94条では「総会」と称する)」を設置していた日本唯一の村だった。いわば直接民主制が実施されていた訳であり、この点でも地方制度史上極めて稀な事例である。詳細は町村総会の項を参照のこと。
島の主な産業は失業対策事業の公共工事の他、農業・漁業・畜産・テングサ採取等だった。電気は島内にある発電機でわずかに供給されたものの、各戸に40W電球1個程度の明かりを灯せるくらいの供給でしかなかった。電話は無く、飲料水も雨水に頼っていたことから、国内の離島の中でもとりわけ生活条件が厳しかったと言われる。また、日本国内では極めて珍しいマレー糸状虫(フィラリアの一種)による象皮症という風土病も存在していた。
1954年(昭和29年)10月1日、町村合併促進法により、鳥打村と八丈島の三根・樫立・中之郷・末吉の各村が合併して八丈村となる。翌1955年(昭和30年)4月1日には宇津木村と八丈島の八丈・大賀郷各村が合併して八丈町となった。しかし、その後も過疎化が止まらず、遂には1965年(昭和40年)頃から八丈島への全島民移住案が出始めた。その理由は、1966年(昭和41年)の請願によると
- 急激な人口流出による過疎化
- 生活条件の厳しさ(電話、医療、水道施設が無い)
- 経済成長と近代化のためにより経済的に豊かな生活を手に入れるため
- 子弟の教育に対する不安
が挙げられた。
離島までの経緯は、1966年(昭和41年)3月小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」を提出。6月に八丈町議会は実情調査を行い、その結果を受けて、請願を採択。
翌1967年(昭和42年)9月、八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。1968年(昭和43年)10月に土地買収に関する住民との協議が成立し、1969年(昭和44年)1月より離島開始。「全国初の全島民完全移住」として注目された。6月には鳥打小・中学校及び宇津木小・中学校が廃校、全島民の移住が完了。それ以降、現在に至るまで無人島である。
最盛期の全島人口は513人。全島民撤退直前の島の人口は宇津木村9戸31人、鳥打村15戸60人だった。
現在も鳥打と宇津木に港の跡があり、上陸が可能で、鳥打の方が上陸しやすい。ただし、小学校跡などの建物は崩壊しており、道路も一部で自然に還りルートが判らなくなっているため、十分な注意が必要である。
[編集] 生物相
八丈小島に野ヤギ生息しており、このことは絵本やテレビなどで紹介された。
小島の野ヤギは島民在住中に家畜であったヤギが逃亡し、急峻な地形の中で捕らえられずに野生化したものが最初であり、その後、移住の際に置き去りにされたものが加わり、それらの子孫が繁殖して現在に至っていると考えられている。島が無人になったことから異常繁殖し、一時期は800頭以上にまで増加した。その影響で都の天然記念物に指定されていたハマオモト等多くの植物群落の消失による島内の環境悪化及びそれに引き続く海への土砂崩落による周辺漁場への悪影響などが問題となり、その対策として八丈町はヤギを捕獲・保護して里親を募集したこともある。捕獲作戦は現在も続いているが、残存している野ヤギは運動能力が高く、捕獲が難しいとされる。
なお、一部の書物等に「移住の際に官公庁の命令でヤギの移動が禁止され、その結果野ヤギが発生した」との説が記載されていることがある。しかし、八丈町及び東京都八丈支庁その他の官公庁にはそのような命令を出した記録は無く、逆に動物の移送を記録した写真及び文書が存在する。そのため、上記の説に関しては否定的に考えるのが妥当とされる。
[編集] 参考資料
- 八丈町勢要覧「はちじょう 2004」(2005年(平成17年)八丈町企画財政課企画係 編集・発行)
[編集] 関連項目
- 鵜渡根島-八丈小島と同様、かつて有人島だった伊豆諸島の島。
- 鳥島-八丈小島と同様、かつて有人島だった伊豆諸島の島。
- 漆原智良-児童文学者。八丈小島の小中学校に教員として赴任。八丈小島が無人島となった後に再訪もした。八丈小島に関する著作多数。
- 大川邦夫-八丈小島の小中学校に教員として赴任。のち、予備校河合塾で現代文の講師をし、名講師となった。彼の赴任記録は平凡社刊行の『日本残酷物語』第7巻に、無記名で掲載されている。