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光原エミカ(みつはら・えみか、誕生日10月20日 - )は、神奈川県横浜市生まれの女優,歌手で宝塚歌劇団卒業生(元月組男役トップスター。)
愛称ダイちゃん。身長(現在の公称)160センチ、出身校法政大学女子高等学校。
[編集] 略歴
- 1974年2月公演「白い朝/ロマン・ロマンチック」が披露公演。
- 同年9月公演の「秋扇抄/ベルサイユのばら」(『ベルばら』初演)で、大はフェルゼンを熱演。
- しかし世間の注目・人気・評判はオスカルを演じた榛名に集中した格好となり、このことが以降の宝塚生活、ひいては退団後の活動に影を落とした。
- 1975年1月公演「春鶯囀/ラビング・ユー」を最後に榛名が花組へ異動、月組単独トップとなる。
- 3月「春の宝塚踊り/ラムール・ア・パリ」
- 10月~11月「恋こそ我がいのち/イマージュ」
[編集] 在団中の人物・スター像
- 当初は二人トップとしてのポジションはメイン・光原、サブ・榛名という位置関係にあった。これは榛名とは同期だったが光原が年長であったことからこのような位置関係にあったと見られる。
- 絶大な歌唱力に定評があった。反面演技面では粗さ・伸び悩みを指摘する声が多く、このことがベルばら以降の榛名とのポジション逆転に直結したとみられる。
- また男役としては小柄で華奢(宝塚時代の公称身長は165センチ)な体格ゆえ男役らしさを造形することに苦労していたことを後年本人が各種メディアのインタビューなどで認めている。
- 当時のトップとしては2年半という就任から異例の短期で退団している。これはあくまで説・憶測の域を出ないとはいえ大に「ベルばら四強」、特に榛名との待遇・評判の格差への不満に端を発し(光原と)下は月組組子、上は歌劇団上層部…とあらゆる方面との間に”円満といえない経緯”があり、早期の退団はこれらの反映だったとされた。
- これには光原のトップ就任後、特に'75年単独トップ体制になって以降、月組の有力なメンバーが相次ぎ退団(麻生薫('74)、組長美山しぐれ('76)ら)、他組へ組替等(榛名('75花へ)・初風諄('75海外公演参加で長期不在・'76星へ特別出演)ら)となるものが多かったこと。また光原月組の公演演目が当時の他組のプログラムに比べ”演目的に恵まれたものといえない”ものが多かったことから斯様な憶測を呼んだと見られる。
- また光原のサヨナラ公演についてトップスターの、特に男役の退団公演は大劇場・東宝両劇場で行うのが通例であるのに対し、とくに光原が関東(横浜市)出身であるにかかわらず東宝公演不実施、しかも芝居の『長靴を~』が児童文学が原作である”駄作”だったことについては劇団と光原との”円満でない経緯”を反映したものではないかとの声が退団から長くたった今も指摘する声がある。
- なお光原退団後の月組は、'76年8月の東宝公演は『長靴を~』でなく、『ベルばらⅢ』を初風諄のサヨナラ公演として榛名オスカル、瀬戸内美八アンドレ、鳳蘭フェルゼン(星組より客演)で上演。(尚、この演目の経緯については初風の項目も参照されたい)
- 上記の経緯を反映してか光原退団後今日まで歌劇団本体・あるいはファンの間で光原の名を出すのはある意味タブー視する傾向が見られる。
[編集] 退団後の活動
- 退団後もテレビ・映画のドラマ作品への出演や歌手としての活動を続けていたが演劇作品では脇役・端役が殆どであったことからやがて歌、ことにディナーショー、リサイタルへ活動の重点を置くことになる。
- また退団後芸名も幾度か改名を経験、大多貴子→光原えみ華をへて現在の芸名にいたった。
- 現在の芸名については「いつも光輝いて笑みを絶やさぬようありたい」という自身の願いをこめたと以前談話している。
- 1990年代に佐川急便との間にディナーショーの運転資金をめぐっての金銭トラブルが発生、民事裁判となり光原の敗訴が確定。このことも光原のその後の人物評・芸能活動に大きくマイナスとなってしまった。
- 近年吉本興業と契約していた時期もあったが現在はフリー(詳細は公式サイトを参照されたい)となり歌に特化した活動を継続。平成16年にはチャリティーリサイタル(の収益寄付)の功績を認められ東京善意銀行より表彰された経験を持つ。
[編集] 外部リンク
光原エミカ公式サイト
- 先代:
- 古城都(1967年~1973年)
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- 宝塚歌劇団月組トップスター
- 1974年~1976年6月22日[1]
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- 次代:
- 榛名由梨(1976年6月23日~1982年8月1日)
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- ^ 1974年~1975年榛名と二人体制,1975年~1976年6月22日は大の単独体制