初風諄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初風 諄(はつかぜ じゅん、本名松野誠子(旧姓菅野)1941年9月11日 - )は、女優で宝塚歌劇団卒業生(元月組娘役トップスター)。
東京都出身。出身校山脇学園、公称身長160センチ、血液型O型、宝塚時代の愛称カンちゃん。(旧姓に由来)
目次 |
[編集] 略歴
寿美花代に憧憬し1961年、宝塚歌劇団に入団。月組公演『春の踊り/サルタンバンク』で初舞台を踏む。同期生に振付家の羽山紀代美がいる。
長身であったことから当初は男役であったが入団まもなく娘役に転向。
1962年1月。研1でまだ組配属が決まる前に、雪組公演『絢爛たる休日』でこれがサヨナラ公演となる男役トップスター、明石照子の相手役に抜擢される。
その後月組に配属。1970年、八汐路まり退団を受け月組娘役トップ就任。
月組では古城都('70~'73)、大滝子・榛名由梨(※二人トップ体制、ともに'74~'75)の相手役を務めた。
1974年『ベルサイユのばら』初演でマリー・アントワネット役を務め、第一期ベルばらブームの礎を築いた。
1975年9月より1976年1月15日までの長期間歌劇団のヨーロッパ公演に参加。(この欧州公演と、1976年3~5月の星組公演への特別出演が決定したため月組公演「恋こそわがいのち」は大劇場・東京公演とも全日程休演、レナール夫人役は舞小雪が代演。)
1976年、星組公演『ベルサイユのばらⅢ』に再度マリー・アントワネット役として特別出演。7月の同作品東京公演で退団予定だったが、8月月組東京公演『ベルサイユのばらⅢ』への出演が決定のため退団を延期、この月組公演千秋楽にて退団。
また娘役トップの退団に際しては歌劇団史上初となる、特別公演「サヨナラリサイタル」もおこなった。
[編集] 宝塚時代のスター像
美声の持ち主でその歌唱力は歌劇団の歴史のなかでも稀有の存在だった。また演技力も優れていたが、それ以上に気品・格調高さを表現することにおいては当時の主演娘役陣随一の評価を得ていた。M・アントワネットは以降あまたの娘役が演じたが、いまだに初風・アントワネットが最高であったとの評価が根強い。
月組「ベルばらⅢ」での退団については、初風の人気もさることながら、長年初風が在籍していた月組生徒たちから「初風さんを最後は古巣である月組から送り出してあげられないか」との声があがり、歌劇団も異例の退団延期・月組公演出演を認めたため実現したものだった。これはオン・オフ両ステージでまじめで温厚、多くの月組組子に慕われ、歌劇団上層部からも一目おかれていたという初風の人望あっての事だったといわれる。
[編集] 退団後の動静
退団後結婚、家庭に専念。ただし歌劇団卒業生が集まるイベントにはごくたまにだが出席したりしていた。
2000年ミュージカル『エリザベート』のゾフィー皇太后役で24年ぶりに舞台復帰という形で本格的な芸能活動を開始。その美声を披露した。宝塚時代をしる舞台関係者のオファーあっての芸能界進出だったが「若い頃にやっていた事が今もきちんとできるのがうれしい」と舞台に立ち続ける。
復帰後の出演作には、『ミー&マイガール』『チャーリー・ガール』『シンデレラ』『桜祭り狸御殿』『サタデーナイト・フィーバー』などがある。
淀かおる・上月晃が相次ぎ逝去し空白となっていた"日本(とくに東宝)ミュージカルの「演れて、唄える」女性助演者"の層を寿ひずるらとともに埋めた功績はかなりのものである。
2005年、病を得て『エリザベート』を降板したが同年11月、歌劇団の先輩笹潤子とのジョイントコンサート『ラ・ルージュ』で復帰した。
2007年、『宝塚BOYS』『蜘蛛女のキス』に出演。
[編集] 雑記
- 宝塚時代の親友の一人に初風緑のおばにあたる女性がいた。緑の芸名は諄にあやかり命名したのだという。
|
|
|
---|
花組 - 月組 - 雪組 - 星組 - 宙組 - 専科 |
宝塚大劇場 - 宝塚バウホール - 東京宝塚劇場 - 宝塚音楽学校 |
劇団統括団体:阪急電鉄(阪急阪神東宝グループ) |