伊藤繁
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伊藤繁(いとう しげる。1947年8月12日- )は元競輪選手。長野県出身で、競輪選手時代は日本競輪選手会神奈川支部所属。日本競輪学校第21期生(同期には田中博、河内剛、大宮政志らがいる)。花月園競輪場をホームバンクとし、引退後は伊藤の功績を讃え、同競輪場でS級シリーズ・伊藤繁杯争奪戦が開催されている。また、息子の伊藤龍也(72期)も競輪選手。
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[編集] 経歴
もとはスピードスケート選手で、名門・三協精機(現在の日本電産サンキョー)に所属していた時代があった。
1965年9月16日に川崎競輪場でデビューし1着。さらにその開催で完全優勝も果たす。
[編集] 大活躍の1968年
伊藤を語る上において、1968年という年は欠かせない。伊藤の生涯獲得タイトルは全てこの年に成し遂げられたものである。
- 第25回全国都道府県選抜競輪(岐阜競輪場)
- 第10回競輪祭競輪王戦
- 1968年度 最優秀選手
この大活躍ぶりに競輪マスコミは怪童というニックネームを授けた。スケールの大きな先行力で他を圧倒するレースぶりが際立ったとのこと。
この年、同じ神奈川の選手である吉川多喜夫(20期)が高松宮杯競輪と日本選手権競輪を制しており、これまで高原永伍・平間誠記・白鳥伸雄の3強時代と言われてきた競輪界だが、白鳥は前年に引退、平間がこの年に不慮の死を遂げ、高原にも陰りが見え始めたことから、競輪新時代はこの年を契機として、完全にこの2人によって作られていくものだろうと考えられていた。しかし、伊藤の競輪選手としてのピークはこの年限りで事実上終わってしまう。
[編集] 平間の死、吉川の引退
伊藤の凋落の兆しというのは、平間誠記の死と吉川多喜夫の引退という2つが切っても切れない関係にある。
1968年、ウルグアイ・モンテビデオで開催される世界自転車選手権に伊藤は平間、吉川とともに出場することが決まっていたが、平塚競輪場で同大会へ向けての練習が行われていた際、平間は落車して頭を強く打ち、そのまま帰らぬ人となってしまった。そしてその際、伊藤がその原因の一人であったということが報じられた(事故当時、平間はヘルメットを被らず、皮製で作られたカスクを被っていたことから、ヘルメットを被っていれば死亡事故は防げたという見方もある)。
さらに程なくして、吉川が当時公営競技界に渦巻いていた「黒い霧」に巻き込まれ、引退を余儀なくされてしまった。宿命のライバルとして、今後もお互いに鎬を削っていくであろう間柄だった吉川の引退もまた、伊藤にとって大きなショックを与えたことは間違いない。
するとその後まもなくして、福島正幸、田中博、阿部道の三強時代が到来し、彼らがタイトルをたらいまわしにするようになると、伊藤のタイトル奪取のチャンスはほとんど巡ってこなくなった。しかし、後述する通り、伊藤にこれ以後全くタイトル奪取のチャンスが巡ってこなくなったというわけではなかった。
[編集] タイトル奪回のチャンス
1975年の第28回日本選手権競輪。伊藤はゴールデンレーサー賞を制するなど絶好調の状態で決勝進出。久々のタイトル奪取が期待された。ところが、ここで勝てばグランドスラム達成となる福島正幸が、ホームからカマシをかけた高橋健二の動きに乗じようとして1センターから捲りに出て行くもバランスを崩して落車。河内剛も乗り上げてしまった。この落車により伊藤はバック付近で大きく立ち遅れてしまい、最後は懸命に高橋を追うも届かずの2着に終わった。
結局はタラレバでしかないのだろうが、仮に福島、河内が落車してさえいなければ、高橋のスピードに唯一対応できたのは伊藤だけだったので、もしここで伊藤が優勝していれば後のヤング全盛時代と呼ばれる時代は訪れなかったかもしれない。伊藤はその後も特別競輪の決勝進出を2回果たすものの、絶好のチャンスというのはこのときが最後であった。
[編集] 異競技からの転身に先鞭をつけた
伊藤は上述の通りスピードスケートの出身である。今ではスピードスケートから競輪界へと転身する選手は少なくないが、伊藤が競輪界入りした当時はスピードスケートはおろか、他競技からの転身というケースは皆無といってもよく(競輪学校がなかった時代は除く)、そういう点からすると、伊藤は異競技から競輪界へと転身した事実上のパイオニアといってもいい存在である。
そして、スピードスケート出身者で特別競輪のタイトルを奪った選手は今のところ伊藤しかいない。つまり伊藤を超えるスピードスケート出身の競輪選手が待望されているといっても過言ではない。
[編集] 関連項目
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