今西錦司
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今西 錦司(いまにし きんじ、1902年1月6日 - 1992年6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都の織屋「錦屋」の生まれ。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。
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[編集] 略歴
[編集] 学歴
[編集] 職歴
- 1933年3月 - 京都帝国大学理学部講師嘱託
- 1936年5月 - 京都帝国大学理学部講師
- 1938年8月 - 京都帝国大学内蒙古学術調査隊
- 1938年12月 - 京都探検地理学会
- 1939年6月 - 興亜民族生活科学研究所所員
- 1948年4月 - 京都大学理学部講師(有給)
- 1950年4月 - 京都大学人文科学研究所講師
- 1952年8月 - マナスル踏査隊長
- 1955年5月 - 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊隊長
- 1956年1月 - 日本モンキーセンター設立
- 1958年2月 - モンキーセンターアフリカ類人猿学術調査隊隊長
- 1959年6月 - 京都大学人文科学研究所教授
- 1961年10月 - 第一次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長
- 1963年5月 - 第二次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長
- 1964年9月 - 第三次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長
- 1965年4月 - 京都大学退官
- 1965年5月 - 岡山大学教養部教授
- 1967年4月 - 京都大学霊長類研究所設立
- 1967年6月 - 岐阜大学学長
- 1973年5月 - 岐阜大学退職
- 1973年6月 - 岐阜大学名誉教授
- 1974年6月 - 京都大学名誉教授
[編集] 学外における役職
- 1971年10月 - 日本山岳会岐阜支部長(初代)
- 1973年5月 - 日本山岳会会長(1977年4月まで)
[編集] 棲み分け理論
初期の研究であるカゲロウの生態に関する研究を通じ「棲み分け理論」を提唱した。「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。生物は互いに競争するのではなく、棲む場所を分け合い、それぞれの環境に適合するように進化していくというものである。
たとえばカゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている。
- 流れが遅く砂が溜まったところに生息する種は、砂に潜れるような尖った頭をしている。
- 流れのあるところに生息する種は、泳ぐことに適した流線型の体をしている。
- 流れの速いところに生息する種は、水流に耐えられるように平たい体をしている。
このようにそれぞれが棲み分けた環境に適応し、新たな亜種が形成されると考えた。この理論がやがて、独自の「今西進化論」へと発展していった。
なお、生物種がニッチを選択している現象を指摘する事自体は今西の独創ではない。すでにダーウィンの時代から知られていた。今西固有の考えは、個体ではなく、今西固有の用語である種が選択の単位になっていることである。これは分類学上の種とは異なり、実際の生物側での認知機構によって構成されたものであり、同種個体はそれによって組織された種社会を形成する。そして異なる種の認識によって棲み分けが行われ同位社会が組織・形成されるという、今西の動物社会学の基礎になった。したがって、異なる種の個体が生息地を分けて分布していることをさす「生息地分割としての棲み分け」と個体ではなく種自体が積極的にすみ場所を分ける「今西流の棲み分け」を区別する必要がある。前者の棲み分けの考えは生態学の中で使われてきた考えであり、今西の独自の考えである後者の棲み分けは現代の生態学では受け入れられていない。
[編集] 今西説
今西説、今西進化論は日本独自の進化論という形でマスコミ、人文系の研究者に取り扱われることが多い。しかし実際には、1920年代および30年代における欧州の社会生態学で優勢であった、進化の所産が決定される際には生物学だけではなく、社会学的な分析も重要であるというアイデアと、米国での動物の集団と協力に関する研究に基づいている。そういった西洋の研究に部分的な影響を受けつつ、西田幾多郎、ヤン・スマッツなどの全体論に基づいた認識論から自身の研究手法を表現する言葉を借りて書かれたのが、1941年の処女作『生物の世界』である[1]。
「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じる[2]。この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する種社会である。種社会は様々な契機によって分裂し、別の種社会を形成するようになる。分裂した種社会はそれぞれ「棲み分け」ることによって、可能ならば競争を避けつつ、適切な環境に移動することができたとき、生物個体と種社会それぞれの自己完結的・自立的な働きの間には相互作用が生じる。その結果生じる生理・生態・形態の変化が進化であるとした。したがって進化とは棲み分けの密度化であるという。その過程において、突然変異が種社会の中で通常以上に高頻度に起きることが必要であり、その変異は速やかに種社会に広がること、変異はランダムではなく発生の制約上方向性をもち、どちらかというと前適応的におきた変異に対して生物が主体的に振舞うので適応的に見えるというのが今西進化論である。さらにその変異の方向性は、種にとって有益であり、また、種が主体的にその方向性を決めなければならない。これは、現在の生物学の知見からは不可能な現象である。
後年、今西はラマルクやダーウィンの適応概念はトートロジーであると排除し[3]、当時のダーウィニズムで一般的だった漸進主義のゆっくりとした進化や、進化における生物の能動性を排除する機械主義的な世界観を認めないため、当時のダーウィニズムと真正面から対立するものとなった。なお、今西は獲得形質の遺伝を主張しているが、カンメラーの実験に対しても否定的で、ラマルクの用不用説に基づいた獲得形質の遺伝とは異なっている。
1970年代以降の今西は、自説に最新の研究の成果を組み込むことをしていないが、柴谷篤弘との対談などから、断続平衡説(スティーヴン・ジェイ・グールド,ナイルズ・エルドリッジ)、分子駆動などを自説を裏付ける理論として注目していたことが伺える[4]。しかし、分子駆動はあきらかに今西論とは関係のない集団遺伝学的問題であり、今西自身、分子駆動の機構や意味について理解していたとは考えられない。
今西説はどのような方法論で進化のメカニズムを検証するのか一切言及しなかったこと、全体論的な認識論が科学教育と合致しないこと、中心となる種・種社会・主体性といった独自の用語が多くの生物学者に理解されなかったことによって、広く受け入れられるには至らなかった[5]。
しかし、学問的な貢献が全くないわけではない。森下正明は今西の生態学に対する理論的な貢献を紹介しているし[6]、チンパンジーの単位群の発見や生物学における文化研究において今西の影響は無視できない。またタンガニーカ湖におけるシクリッドの進化において、川那部浩哉らが単純な意味で生存競争の結果とはしない考察をしているのは今西の影響が指摘される。しばしば棲み分けを強調し、競争を排除していると指摘される今西進化論だが、そもそも「競争が避けられるなら棲み分ける」という説であり、門下とみなされる吉良竜夫などの研究にも競争が重要な位置を占めることから、そのような批判は単純な誤解である。
一方で、河田雅圭・伊藤嘉昭・佐倉統・岸由二・粕谷英一らは今西の議論に対してより強く否定的な見解を示している。例えば河田は「生態学や進化論において今西の「オリジナルな理論的貢献」はまったくないと考えている。」[7]としているし、岸は1980年代まで今西説とルイセンコ説が日本の生物学に総合説の受容を遅らせるという悪影響を及ぼしたと主張している。しかし西田利貞は、当時日本も含め世界的に一般的であった進化観はウィン・エドワーズの集団選択説であり、個体主義的、遺伝子単位的な進化観が普及したのは1970年代のウィルソンの『社会生物学』、ドーキンスの『利己的な遺伝子』以降であったと指摘し、今西説がジョージ・C・ウィリアムズの個体淘汰説の普及を遅らすような悪影響を及ぼしたという河田らの説に反論している[8]。しかし、欧米では、1970年以降、個体を淘汰の単位として考えるのが一般的になりつつあったが、日本では、1980年代の中盤まで、生態学者の多くは「種にとって有利な性質が進化した」と考えていた。1980年代中盤から後半にはいって、個体淘汰説が日本の生態学の中で次第に受けいられるようになったのは、当時の生態学分野の大学院生らの活躍によるものであった。当時、少なからぬ割合の生態学者(当時30歳台後半以上)が種を単位とした今西の生物学を信じていたと思われる。ただし、種が重要であると考える生態学や進化学が流布していた原因は、今西を信奉する生態学者だけでなく、ルイセンコの影響を受けた左翼系生物学者による影響も大きかった。
また河田や岸、粕谷は、今西が京都学派の西田幾多郎や田辺元らの全体論から影響を受けているとし、その進化論に全体主義的な思考の萌芽が含まれており、今西の進化論は種による統制という思想であると批判した。この批判は、今西が影響を受けたことを認める西田幾多郎ではなく田辺元に批判の源泉を求めていることが特徴的である。しかし、今西は上山春平から指摘される[9]まで、西田からの影響を明示したことはなかったし、徳永幸彦も今西の議論に河田らが指摘するような種主義や種による統制という思考が『生物の世界』にないと指摘した[10]。しかし、『動物の社会』(思索者)には「必要もないのに個々の個体が勝手な変化を起こすというのは、種社会の統一を破り、その秩序をみだすことになる。したがって、そのようなことは健全な種社会においては、なんらかの工夫によって阻止されていなければいけないのである」という表現があり種による個体の統制という考えが今西思想に存在していたことを否定できない。
構造主義生物学を標榜する柴谷篤弘、池田清彦[11]や、生態学者である市野隆雄[12]らは『生物の世界』『生物社会の論理』を読み直した結果、現在の進化学、生態学の状況を予言したものであったと再評価している。特に柴谷は、『今西進化論批判試論』(1981)において、ダーウィンが『種の起源』で指摘しつつも自然選択説の影に隠れてしまっていた隔離説・中立説・ニッチ選択・群選択説といった現象に再評価を与えたものであり、直接的に対峙するものではないと指摘している。しかし、柴谷および市野らの議論は、表面上の表現の類似点を議論したにすぎず、実質的な進化機構に関しては今西説がダーウィン進化論あるいは現在の進化生物学の説明を予言した、あるいは同じであるという判断は間違いである。 また、池田清彦は、現在主流になっている考えに対して反対の立場を表明するというスタンスから、ダーウィニズムを批判していると考えられ、現代進化学の枠組みと流れを正しく理解した上での今西論擁護であるとはいえない。実際、池田清彦は、不正確な理解と引用による言説が多く、批判されることが多い(たとえば[13], [1],[2])。また、その言説の不誠実さに対して進化学者のほとんどは池田の進化に対する説明を信用していない。
ただし、霊長類学などにおいて、野外の長期研究拠点が増えたことに伴い、行動の地域変異について詳細な比較が可能になり、遺伝子に還元しない社会・文化に関する研究が行われ、今西の再評価が行われている[14]。
[編集] ニホンザル研究
1950年代、今西錦司らが幸島(こうじま)および高崎山で野生ニホンザル群の餌付けに成功して以来、日本の霊長類研究は飛躍的な発展を遂げた。今西の指針の特徴は以下の通りである。
- 当時種内の地域差という観点がなかったにもかかわらず、幸島・高崎山の二カ所で研究を始めたこと
- 個体に番号を振ることで個体識別をしたC.R.カーペンターの研究をふまえ、野生群の個体に名前(イモなど)を与えていたこと
- 最初から社会・文化研究に焦点が当てられていたこと
今西らはニホンザルの社会集団の存在を実証し、その構造や文化的行動について明らかにした。この研究は世界中から注目され、その後の霊長類研究の方向性に重大な指針を与えた。
その後アフリカの類人猿、狩猟採集民の調査を通じ、人間社会、人間家族の起源について研究をおこなった。
[編集] 受賞・受章
[編集] 登山家としての側面
学生時代から登山を好んだ。戦前には大興安嶺を踏破している。1985(昭和60)年には日本1500登山を達成した。岐阜大学学長を承諾した理由は岐阜・大垣の背後にそびえる美濃の山々が気に入ったからであり、「そこに山があるから私は岐阜大学に行くのである。」との言を残している。(『私の履歴書』日本経済新聞1973年1月30日付より)海外では50歳でヒマラヤのチュルー峰を、61歳でキリマンジャロに登った。1971(昭和46)年の『文芸春秋』掲載の司馬遼太郎との対談では、長らく患っていた坐骨神経痛がヒマラヤ登山で完治したと話している。
[編集] その他
南極越冬隊隊長を務めた西堀栄三郎とは旧制京都一中以来の親友。
[編集] 関連項目
[編集] 主要著書
- 『今西錦司全集(増補版)』全14冊、講談社、1993年-1994年
- 『今西錦司-そこに山がある』(『人間の記録』75)、日本図書センター、1998年8月。ISBN 4-8205-4320-2
[編集] 参考文献
- 大串龍一著『日本の生態学-今西錦司とその周辺』、東海大学出版会、1992年9月。ISBN 978-4-486-01182-8
- 川喜田二郎監修『今西錦司-その人と思想』、ぺりかん社、1989年10月。ISBN 978-4-8315-0464-7
- 京都大学総合博物館編 / 梅棹忠夫ほか著『今西錦司-フォト・ドキュメント-そのパイオニア・ワークにせまる』、国際花と緑の博覧会記念協会、2002年12月。ISBN 4-87738-155-4
- 斎藤清明著『今西錦司-自然を求めて』(『しょうらい社人物双書』3)、松籟社、 1989年12月。ISBN 4-87984-110-2
- 本田靖春著『評伝 今西錦司』、山と渓谷社、1992年11月。ISBN 4-635-34006-6
- 『科学』第73巻第12号 / 通巻856号(特集=今西錦司-その思想と学問への志向)、岩波書店、2003年12月。
[編集] 脚注
- ^ パメラ J. アスキス, 2006, 社会性および進化の所産に関する今西錦司の観点を示す諸資料, 生物科学, Volume.57, No.3
- ^ 今西錦司, 1993,今西錦司全集 第4巻 生物社会の論理, 講談社, ISBN: 4062533049
- ^ 今西錦司 主体性の進化論 中央公論社, 1980.7 , 218p. -- (中公新書 ; 583)ISBN :9784121005830
- ^ 今西錦司,柴谷篤弘,米本昌平, 1984, 進化論も進化する, リブロポート
- ^ 西田利貞, 2003, 霊長類の研究と今西錦司, 科学, vol73, 12
- ^ 森下正明, 1993, 解題, 今西錦司全集 第4巻 生物社会の論理 「論理」をめぐる諸論文, 講談社, ISBN: 4062533049
- ^ 河田雅圭, 1990, 日本社会と今西進化論, はじめての進化論, 講談社現代新書
- ^ 西田利貞, 前掲
- ^ 上山春平, 1971, 日本の思想―土着と欧化の系譜, サイマル出版会 (再版 岩波書店, 1998)
- ^ 徳永幸彦, 2006, 今西錦司 『生物の世界』周りのテーラー展開として, 生物科学, Volume.57, No.3
- ^ 池田清彦, 1991, 構造主義科学論からみた進化論史 講座進化 1 進化論とは. 東京大学出版会, 柴谷篤弘, 長野敬, 養老孟司編
- ^ 市野隆雄, 2003, 壮大なフロンティア精神の現代的意義―今西錦司の生物学, 科学, vol73, 12
- ^ 粕谷英一・浅見祟比呂, 1998, 池田清彦氏は科学主義者だろうか―オオシモフリエダシャクの工業暗化、科学、8月号, p.670
- ^ フランス ドゥ・ヴァール (訳)西田 利貞・藤井 留美 , 2002, サルとすし職人―「文化」と動物の行動学, 原書房, ISBN: 4562035889