仁賀保挙誠
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仁賀保 挙誠(にかほ きよしげ、永禄3年(1560年) - 寛永元年2月24日(1624年4月1日))は、戦国時代の武将。出羽国由利郡の南部を支配していた戦国大名であり、実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」である。これは光誠が本名であるが、彼の次男である仁賀保誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、光」の代わりに「挙」の字を当てた為と考えられている(自身も仁賀保光政から名を誠政に変えている)。なお、寛政譜では挙誠を「たかのぶ」と読ませている。従五位下、兵庫頭・兵庫助を名乗る。
なお、仁賀保氏は通字に「挙」を使用し、「一文字三ッ星」の家紋を使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通事であったのであろう。また、家紋は「一文字三ッ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを組むとの説が有力。
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[編集] 仁賀保氏の成立
仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信州大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で出羽国由利郡には信州大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信州大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる大井甲斐守光長は兄弟であるらしく、この光長の孫の友光の時代には仁賀保郷に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。
後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくるもの達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増す。仁賀保氏の祖と言われる大井友挙と言われる人物は、彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。
無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井氏の当主である大井持光は鎌倉公方足利成氏の祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏の分家である大井友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。
大井友挙の子の大和守挙政は、苗字を居住地名を以って「仁賀保」とした。仁賀保は大永4年の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。
3代目の仁賀保挙久は優れた人物であり、兵を出羽庄内に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど、活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより、仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は関東御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。
[編集] 仁賀保挙誠の登場
仁賀保挙誠は仁賀保挙久から仁賀保氏が4代続けてお家騒動と敗戦により当主が非業の死を遂げた後に、一族である小介川氏から養子に入った仁賀保氏の中興の祖である。仁賀保挙誠は天正13年に家督を継ぐと、天正16年末には挙久の敗死により始まった矢島満安との戦いを、奸智により矢島氏を攻め滅ぼしてケリをつけ、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した最上義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、豊臣秀吉の小田原攻めに加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。
仁賀保氏は歴代、山内上杉氏またその分家の越後上杉氏、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏が独立を目指すと、仁賀保氏は孤立する。この頃、一族の小介川氏(赤尾津氏)は安東愛季の支援を受けて小野寺氏の下より離反し独立していた。仁賀保氏はこの小介川氏を通じて安東愛季に好を通じる。6代目当主の仁賀保八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、仁賀保挙誠が小介川氏より養子に入ったのは、この様な理由によると考えられる。
仁賀保挙誠が家督を継いだ当初の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉氏方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。 さて、最上義光は不利になりつつあった出羽庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、最上義光は豊臣秀吉の惣撫事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、豊臣秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下に仕様とする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは豊臣秀吉には出仕するが、最上義光の命令は聞かないという立場をとったようである。
天正16年になり最上義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び仁賀保挙誠らに圧力をかけて来たが、越後よりは本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕し、出羽庄内を再び上杉氏の物とした。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上義光軍を駆逐して回ったらしい。この上杉景勝軍の動向と仁賀保挙誠の動向からして、出羽庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。
故に翌天正17年に安東氏の内紛である秋田湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田(安東)実季に支援。戦を鎮めるのである。よって秋田実季は改易を免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。
[編集] 仁賀保挙誠の領土
仁賀保挙誠の領土は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、小介川氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年に他氏の傘下に入ったらしい。但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から仁賀保挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしき事が推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保氏軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。
石高は天正18年には3,716石の記載があるが、天正20年には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると12,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。
[編集] 豊臣政権下
仁賀保挙誠は小田原参陣の後、妻子を京都に人質に取られる。これは奥羽の武将総てである。
翌天正19年には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、「奥羽永慶軍記」によれば大功を立てている。
文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、朝鮮牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。 文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より徳川方与同の誘いを受け、同族の小介川氏当主の小介川孫次郎と共に東軍に加わり、出羽庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵し徳川家康が上洛すると、徳川家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉景勝方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に最上義光より西軍与同の嫌疑を受ける。
石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している上杉景勝を攻める。この際、上杉氏家臣の下尾治右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に徳川家康から所領を安堵され、感状を与えられている。
戦後、仁賀保挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田5000石に移封される。
[編集] 徳川政権下
常陸武田に移封になった挙誠は、江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務める。
さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。彼は元々は最上義光の重臣であり、最上家のお家騒動に絡み、土井家に御預けになっていた人物である。その鮭延秀綱が土井利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の仁賀保挙誠の勇戦振りを語り、それに感銘を受けた土井利勝により仁賀保挙誠は元和9年10月18日、旧領に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、仁賀保挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。
なお、万石以上が大名であるというというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。
仁賀保挙誠は、仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月24日に死去。享年65である。寛政譜の没年は誤りである。菩提寺はにかほ市院内の賀祥山禅林寺。13回忌に次男と3男が立てた五輪塔墓がある。同市象潟の蚶満寺にも墓があり、当初はこちらに埋葬されたらしい。法名は正山本公。東京都三田に禅林寺の末寺として同法名からとった寺の正山寺がある。
挙誠の死後、仁賀保家は挙誠の遺言により、3家に分割された。しかし長男の蔵人良俊と次男誠政、3男誠次は異母兄弟であり、長男と次男以下の間に相続争いが起こり、柳生宗矩の裁定により遺言どおりに分割されることが決まった。家督は長男の仁賀保良俊が継ぎ、所領は7000石、次男の仁賀保誠政に2000石、三男仁賀保誠次に1000石が分け与えられた。なお、仁賀保良俊は7,000石ではあるが、依然大名であったようである。良俊は参勤交代をしており、梅津政景の日記などによれば、佐竹氏とも頻繁に交流していたようである。
良俊は当初蔵人を名乗っていたが、家督相続後、父と同じ官職の兵庫頭を名乗る。良俊の家系は良俊に子が無かった為、仁賀保藩は改易となったが、誠政流、誠次流の家系は明治時代まで存続した。
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