鮭延秀綱
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鮭延 秀綱(さけのべ ひでつな、永禄5年(1562年) - 正保3年(1646年))は出羽国の豪族、小野寺氏・最上氏・土井氏の家臣。佐々木貞綱の子。典膳、越前守を称する。
鮭延氏は宇多天皇の子敦実親王を祖とする近江源氏佐々木氏の一族である。二十代綱村のとき出羽国に下り、横手城主小野寺氏に仕えた。その後、佐々木氏は最上地方に下り、永禄6年(1563年)、佐々木貞綱の時に庄内武藤氏の侵攻に敗れ、鮭川のほとりの真室内町に退き、居城の地名鮭延を名字とした。なお、このころ幼少だった秀綱は一時武藤氏に捕らわれ庄内に連れ去られている。
[編集] 生涯
天正9年(1581年)、最上義光の軍勢による鮭延城攻撃を受ける。このころ城主となっていた秀綱は抵抗を試みるものの、攻め手の氏家守棟の調略により内部の切り崩しを受けたため降伏、本領を安堵された(一時武藤氏を頼って脱出し、義光の庄内攻めの際に旧領復帰を条件として内応したとする説もある)。その後は最上家に仕え、最上領北方の守護として旧主・小野寺氏を相手に和戦両面で活躍、1595年には楯岡満茂の先鋒として湯沢城攻略に貢献するなどした。
関ヶ原の戦いに呼応して直江兼続率いる上杉軍が、最上家の長谷堂城を包囲する。秀綱は副将格として長谷堂城に派遣され、城主の志村光安を助け、楯岡光直や清水義親らと共にこれを救援した。秀綱は部隊を率いて上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せ、『永慶軍記』には、名将・直江兼続をして「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたとある。戦後に最上家が出羽山形57万石に封じられると、秀綱には真室城11,500石が与えられた。
元和3年(1617年)、幼少の最上義俊が最上家の家督を継いだことに反対し、秀綱は義光の四男山野辺義忠を擁立したため、家臣団は二つに分かれて対立した。このお家騒動(最上騒動)が理由で元和8年(1622年)、最上家は近江大森1万石に改易された。秀綱も佐倉藩主土井利勝のもとに預かりとなったが、後に最上騒動の不始末を許されてからは土井家に仕えた。このとき、与えられた知行5千石を山形以来の家臣に全て分け与え、自身は家臣の下を転々として暮らしたとも言われている。
寛永10年(1633)4月の土井家転封に伴って古河に移り、正保3年(1646年)、当地にて死去。遺徳を偲んだ家臣たちによって鮭延寺(茨城県古河市)が建立され、弔われた。
[編集] 鮭延秀綱が登場する作品
- 海音寺潮五郎 短編小説 「乞食大名」(短編集『かぶき大名』収録)
- 映画『乞食と大名』(上短編原作の作品)