最上義俊
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長10年(1605年) | |||
死没 | 寛永8年11月22日(1632年1月13日) | |||
別名 | 源五郎(通称)、家信(別名) | |||
戒名 | 月照院殿華岳英心大居士 | |||
藩 | 出羽山形藩主→近江大森藩主 | |||
氏族 | 最上氏 | |||
父母 | 父:最上家親 | |||
妻 | 正室:南部利直の娘 | |||
子 | 最上義智、最上義長 |
最上 義俊(もがみ よしとし)は、江戸時代前期の大名で、最上氏の第13代当主。出羽山形藩の第3代藩主。のちに近江大森藩主。
慶長10年(1605年)、山形藩の第2代藩主・最上家親の嫡子として生まれる。
元和3年(1617年)、父の家親が病死したため、若年でその後を継いで第3代藩主となった。しかし義俊は酒色に溺れ、到底藩主の器とはいえず老臣たちの反発を招いた。こうした一部の家臣が彼の叔父にあたる山野辺義忠が藩主たるべきだと考えるようになった。義俊はこれに怒り、父の死は山野辺義忠の毒殺によるものであると幕府に訴えた。
幕府の調査により、山野辺義忠擁立の要望は組織だったものではないこと、前代の死は急死であるが自然死であったこと、そして義俊の政治が極めて拙いことが明らかになった。幕府は、将軍家が徳川家康の代から最上氏と同盟関係にある点を考慮し、義俊と老臣の間を仲介しようとしたが、両者譲り合わず(老臣の一部は「この主君では既に先が見えている」として協力を拒否した)、ついに元和8年(1622年)8月21日に改易されてしまった。義俊が中年に達したのちには6万石を賜うとのことではあったが、この約定が果たされることはなかった。
出羽山形藩57万石を改易された後は、近江大森藩1万石に入封するが、寛永8年(1631年)に死去。享年27。子の最上義智に家督相続が認められるが、年少の故をもって5000石に減封され、以後、最上家は交代寄合として存続した。
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