最上義智
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最上 義智(もがみ よしとも、寛永8年(1631年) - 元禄10年3月9日(1697年4月29日))は、江戸時代の旗本。交代寄合、後に高家。最上氏の第14代当主。最上義俊の長男。通称は仙徳、源五郎、刑部。官位は従五位下侍従・駿河守。正妻は松平和泉守の養女。後妻は奥平忠昌の娘。後妻は三条西実条の娘。次男義雅ら三男二女あり。
寛永9年(1632年)8月28日父義俊の死去により、家督を相続した。しかし、幼少のために五千石を減封されて、五千石の旗本になった。領地は近江国蒲生郡内だけになり、同郡大森村に陣屋を構えた。寄合に所属した。寛永13年(1636年)8月15日将軍徳川家光に御目見得し、交代寄合の格式を付与された。明暦元年(1655年)初めて領地に赴任する許可を得る。元禄8年(1695年)12月15日高家役に就任し、18日従五位下侍従・駿河守に叙任する。元禄10年(1697年)3月9日死去、67歳。なお、最上家からの高家登用は義智だけであり、息子義雅からは交代寄合に復帰した。
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