仁科氏
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仁科氏(にしなうじ)は日本の氏族。系統は桓武平氏繁盛流・清和源氏・義光流・武田支流。(また、清和源氏頼季流乙葉氏族の仁科氏もある。)
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[編集] 桓武平氏繁盛流
「岩城仁科系図」によると、平貞盛の後裔で仁科盛遠の時に仁科を姓としたのが始まりとなっているが、現在では奈良時代に古代豪族阿部氏または安曇氏が姫川を遡り安曇郡に定住、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を本拠としたことを起源とする説が有力とされる。他にも奥州安倍貞任の末裔などという説もあり、出自はいまだ確定されていない。平姓関盛長の子が仁科義隆の婿となり、文和2年(1353年)に仁科の領主となったという関氏出身説もある。
鎌倉期には既に安曇の大豪族として知られるようになり、承久3年(1221年)の「承久の変」では仁科盛遠の処遇が変勃発の一端ともなり、このとき仁科氏は宮方として後鳥羽上皇に味方している。南北朝の争いには南朝に属し、後に北朝側の守護小笠原氏に帰属するものの、大塔合戦では大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒。小笠原長秀を信濃から追い払う活躍を見せる。
その後、小笠原氏の配下に復帰して縁戚関係を結んでおり、戦国時代の天文年間に本格化した甲斐国守護武田氏の信濃侵攻においては小笠原や村上氏と同調して武田に抗していたが、『二木家記』や『小笠原系図』に名前が見られる戦国期の当主である仁科道外(盛能)は、武田方の史料である『高白斎記』によれば天文19年に仁科仁科上野介(盛政か)を介して武田氏に臣従し、塩尻峠の戦いで小笠原長時が武田方に大敗する原因となる。武田方に帰属した仁科氏は千国街道の流通など支配権益を保障され、道外の孫である仁科盛政の頃には武田被官化するが、一族の間で内紛が発生し、更に盛政自身も川中島の戦いで上杉氏に寝返ったとして処刑され、仁科氏の正統は絶える。
武田信玄は信濃攻略において、諏訪氏など信濃名族に対して実子に名跡を継がせ親類衆に列して懐柔する方法を行っているが、仁科氏も5男仁科盛信が名跡を継いだ。ここから清和源氏・義光流・武田支流が出自となる。
[編集] 仁科盛信の子孫(清和源氏武田支流)
盛信長男の信基と次男の信貞が残り、両名とも戦国時代を生き抜いた。家康と対面したとき、敗将の子として罰せられるのを恐れた。子孫が仁科氏の存続と仁科盛信の家系を名乗ることを願い出て、それを許される。その後、徳川旗本として仁科信基の系統に3100石を与えられ、後に1000石加増されて4100石となる。 江戸時代を乗り切り、2系とも現在も存続している。
長男の信基の系統は仁科氏嫡流を引き継ぐ。大正4年(1915年)に正四位を贈られ、現在に至る。
次男の信貞は武田に復姓して明治時代に兵庫県に移住して武田の血を後世に残している。
- 旗本仁科盛信家当主一覧
[編集] 美作仁科氏(1)(大伴氏後裔? 詳細は不明)
嫡流の仁科氏とは別で大伴氏の一族が奈良時代の頃に美作に土着したとされる。仁科氏が岡山県浅口郡濱中村(現・里庄町)に家を構え、領主の年貢のとりまとめをする庄屋をしていた。昭和期の物理学者・仁科芳雄はこの末裔にあたる。この仁科氏は多くの支流を出し、どれが美作仁科氏の宗家か不明である。
明治時代に潰れた後は庄屋をしていた仁科氏達はそれぞれの道をたどる。その為、岡山県浅口郡や備前市旧日生町地域には仁科姓が多い。丸に梅鉢[1]または五七桐[2]を家紋にしていた。
[編集] 美作仁科氏(2)(清和源氏 仁科氏流)
仁科氏嫡流の14代目当主仁科盛輔の次男盛助の系統。明治時代に岡山県備前市に移住。
[編集] 会津仁科氏
福島県会津若松市に住んでいた仁科氏一族がある。 これも嫡流とは別で清和源氏、清和源氏頼季流乙葉(おとは)氏族としているが詳細は不明である。
[編集] その他の仁科氏
小笠原氏の家臣に穂高・沢渡・渋田見・古厩・日岐の仁科氏一族が仕えたのと帰農した者にわかれている。また清和源氏、清和源氏頼季流乙葉(おとは)氏族の仁科氏、桓武平氏繁盛流、大伴氏、安部氏など複数の氏族が仁科を名乗っている。