串刺し
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串刺し(くしざし、英語:Impalement)は、拷問・死刑の方法で、長い串(杭、棒)で犠牲者を突き刺すことである。串の挿入は直腸もしくは口から行われ、犠牲者に速やかな苦痛と死をもたらした。通常、串は木のように地面に立てられ、串で刺された犠牲者は、死に至るまで、地面の上に放置された。手順としては、犠牲者は串刺しの前に、公開拷問および暴行を含む刑を受けた後、衣服を剥ぎ取られた。次に、生殖器と直腸の間にある鼠径部に切り口を開けられ、そこに先端を丸くした丈夫な棒を挿入された。丸い先端は生命維持に必要な器官(臓器)を圧しながら口の方に押し込まれた。先端が尖っている時は、器官に穴を開け、死を早めることもあった。棒の代わりに、手頃な枝が使われることもしばしばあった。
犠牲者の体が棒を滑り落ちないように、棒を胸骨の頂点から飛び出させ、下顎に当てることも少なくなかった。また、途中まで刺してから、犠牲者を地面の上に持ち上げることもよくあった。
[編集] 歴史
串刺しの使用は、例えば古代エジプト[1]、アッシリア、ペルシア帝国といった古代オリエント文明で、処刑の1形式として使われ、それは古代オリエントの彫刻および彫像により確認できる。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの著書『歴史』によると(3.159)、ダレイオス1世はバビロンの反乱を平定した際、3000人のバビロニア人を串刺しにしたということである。この処刑についてはベヒストゥン碑文にも言及されている。古代ローマでは、串刺しを表すのに、磔(はりつけ、英語:crucifixion)という言葉が使われることもあった。古代の著作家たちはカルタゴで、戦場での背信と失敗に対する極刑として、他の拷問刑と組み合わされて、磔(おそらく串刺しのことであろう)の使用が行われたと記録している。
串刺しは、中世を通して、アジア・ヨーロッパで盛んに実行された。ヴラド・ツェペシュはオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに囚われていた時に、串刺しによる殺人の方法を学んだ。さらに、イヴァン雷帝もこの方法の主要な使用者として伝説になり、モンゴル軍もこの方法を使用した。
14世紀から18世紀にかけて、ポーランド・リトアニア連合でも、串刺しは重大な内乱罪に対する伝統的な処刑方法であった。
17世紀のスウェーデンでも、デンマークの旧地方、スカニア(またはスカンランド、Skåneland)のレジシタンス・メンバーに対する死罰として、串刺しが用いられた。そこでは串は、被害者の脊柱と皮膚の間に挿入され、被害者が死に至るまで4日から5日かかったらしい。
南アフリカのズールー族も、任務に失敗した、あるいは臆病を見せた戦士に対する処罰の1つとして、串刺しを用いた。[2]
[編集] 参考文献
- ^ [1]Crucifixion Or 'Crucifiction' In Ancient Egypt? by M S M Saifullah, Elias Karim & ‘Abdullah David (Islamic Awareness)]
- ^ [2] The South African Military History Society Military History Journal Vol 4 No 4