中川久清
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中川 久清(なかがわ ひさきよ、慶長20年1月10日(1615年2月7日) - 天和元年11月20日(1681年12月29日))は、豊後国岡藩の第3代藩主。父は第2代藩主・中川久盛。母は松平定勝の娘。正室は石川忠総の娘。子に久恒、久周、娘(前田正甫室)。官位は従五位下、山城守。
慶長20年(1615年)正月10日生まれ。幼名は津丸。承応2年(1653年)、父の死去により後を継いだ。藩政を確立するため、家老制度や奉行制度を制定し、さらに検地やキリシタン摘発を目指しての絵踏みを行なった。また、岡山藩から熊沢蕃山を招聘して植林政策や郷村制度の強化を行なった。このようにして藩政を確立すると、寛文6年(1666年)5月29日に老齢を理由に子の中川久恒に家督を譲って隠居した。しかし隠居してもなお、実権を掌握し続けたと言われている。
九重連山の一つ大船山を愛し、足が不自由だったため「人馬鞍」と呼ばれる鞍を屈強の男性に担がせて何度も登山した。
天和元年(1681年)11月初旬、江戸から帰国途中に発病し、11月20日に岡にて死去した。享年67。法号:宝厳院。墓所は自身が愛した大船山中腹1,300メートルを超える台地上にあり、入山公墓と呼ばれる。
藩政の確立と教育の普及に努めた名君であり、岡藩中興の英主と言われている。
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