中川久恒
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛永18年7月26日(1641年9月1日) | |||
死没 | 元禄8年6月15日(1695年7月25日) | |||
別名 | 清蔵(幼名) | |||
戒名 | 栄松久山宝浄院 | |||
墓所 | 大分県竹田市城北町の碧雲寺 | |||
官位 | 従五位下、佐渡守 | |||
藩 | 豊後岡藩主 | |||
氏族 | 中川氏 | |||
父母 | 父:中川久清、母:石川忠総の娘 | |||
兄弟 | 中川久恒、中川清正、中川久和、 中川久旨、中川久矩、中川久周 |
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妻 | 正室:池田光政の娘 | |||
子 | 中川久通、鍋千代、熊千代、 娘(仙石政明室) |
寛永18年(1641年)7月26日、第3代藩主・中川久清の子として生まれる。寛文6年(1666年)4月29日、父の隠居により家督を継いで藩主となった。藩政においては寛文9年(1669年)の軽犯罪者取締の強化をはじめ、貞享4年(1687年)の捨て子禁止令など藩内の治安維持を図り、さらに関幸輔を招聘して文治教育にも尽力した。しかし生来から病弱だったため、天和2年(1682年)からは弟たちによって藩政が代行されている。
元禄8年(1695年)6月15日に死去。享年55。後を子の中川久通が継いだ。
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