上杉憲房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)
[編集] 上杉憲房(南北朝時代)
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ、生年不詳 - 1336年3月10日(延元元年/建武3年1月27日))は、鎌倉時代、南北朝時代の武将。上杉氏当主。上杉頼重の子。上杉清子(足利尊氏の母)、加賀局(上杉重能の母)の兄弟。室町初代征夷大将軍足利尊氏や足利直義の母方の伯父。 子に上杉憲顕、上杉憲藤、女子(高師泰正室)。養子に上杉重行、上杉重能、上杉重兼などがいる。兵庫頭。蔵人。上野守護。
鎌倉幕府打倒に功があり、伊豆の地頭職と上野の守護職を与えられ、新田義貞を牽制する役を担った。尊氏が建武の新政に反発し反乱を起こすとこれに従ってともに上洛したが、北畠顕家・新田義貞の反撃を受けたため尊氏は京から九州へ逃走する。憲房はこのときの戦いにおいて尊氏を逃がすため戦死している。
[編集] 上杉憲房(戦国時代)
上杉 憲房(うえすぎ のりふさ、1467年(応仁元年) - 1525年4月17日(大永5年3月25日))は、日本の戦国時代の武将で、関東の名門山内上杉氏の当主。上杉憲実の子で僧籍にあった周晟の子で、関東管領上杉顕定の養嗣子。妻は上杉朝昌娘。上杉憲政の父。上杉憲寛の養父。五郎。兵庫頭。
顕定と共に長尾為景を討つため出陣し、上野白井城に駐屯していたが、顕定が長森原の戦いにおいて戦死すると撤退する。関東管領職は顕定の遺言により上杉顕実(足利成氏の子)が継いでいたが、憲房はこれと争って勝利し、1512年に山内上杉氏の家督を継ぎ、1515年の顕実の死によって関東管領職をも継いだ。しかし家臣・長尾景春の離反、扇谷上杉家の上杉朝興や相模北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況の中、病に倒れ、大永5年(1525年)3月25日、59歳で死去する。後を養子の憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の憲政が継いだ。憲政は、憲房が年老いてから生まれた息子であったために、わがままに育てられたという説もある。
|
|
|