三増紋也
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三升 紋弥(みます もんや)は、落語家・曲独楽師の名跡。当代は3代目。当代のみ三増紋也の漢字表記を使用。
[編集] 初代
のちの三升家紋右衛門。
[編集] 2代目
芸界入り前後の活動等不明。既に1910年の三友派の出番表に三升家紋右衛門の門下で小紋の名がある。つまり十代半ばで芸の世界に入っていることになる。
若い頃は落語をやっていたが上方落語の衰亡の危機で色物に転じ音曲、曲独楽や槌家万治との曲毬の相高座などで売った。
大正に入って大八会の結成に参加し大幹部の位置で所属し美音の鶯の谷渡りで「後家殺し」と喝采を受けていた。
大正の末には2代目紋弥を襲名後は上京し東京で晩年を過ごした。弟子には花月亭九里丸、実の子の3代目紋弥がいる。
[編集] 3代目
大阪天王寺生まれ、父は2代目紋弥で父の元で曲独楽の修行をし1942年小紋の名で初高座。1950年に紋也を継ぐ。国内だけでなく海外公演もこなす。舞踊家でもあり10代目岩井半四郎の父・花柳寿太郎の弟子で花柳弥寿郎(花柳彌壽郎)の名を持つ。
弟子には3代目三増小紋(長女)、三増紋子、三増紋之助、三増巳也、三増れ紋、マサヒロ水野等がいる。