一心寺
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一心寺 | |
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一心寺本堂 |
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所在地 | 大阪府大阪市天王寺区逢坂2-8-69 |
山号 | 坂松山 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 文治元年(1185年) |
開基 | 法然(開山) |
正式名 | 坂松山高岳院一心寺 |
別称 | 骨仏の寺 |
札所等 | 法然上人二十五霊跡 第七番 |
一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。
目次 |
[編集] 沿革
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
家康は、境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の寺額を贈った。大坂冬の陣・大坂夏の陣では徳川家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれている。この寺には大坂夏の陣で最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦し、死の間際に「戒むべきは酒なり」と言い残したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人がよく詣でている。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現住職(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年完成、彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年完成)など現代建築による施設も見所の一つである。
[編集] 骨仏
盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。
大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年開眼。1997年~2006年末まで)の骨仏が安置されている。
[編集] 第七番御詠歌
阿弥陀仏というよりほかは津のくにの なにはのこともあしかりぬべし
[編集] 参考
- 「浪華一心寺史抄」
- 「日想観図像縁起」
[編集] 劇場
隣接する東側、茶臼山の裏には「一心寺シアター倶楽」という劇場建築を持っており、小劇場演劇、コンテンポラリーダンス、落語などの舞台芸術を提供している。
南側にある「南会所」では、毎月3日間「一心寺門前浪曲寄席」が、毎月21日には「二十一日寄席」が、それぞれ開かれる。
[編集] 所在地
- 大阪府大阪市天王寺区逢阪二丁目8番69号
- 北緯34度39分10.95秒東経135度30分39.13秒(世界測地系)、北緯34度38分59秒東経135度30分49秒(日本測地系)