ヴォーバン
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ヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル(Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban、1633年5月15日 - 1707年3月30日)は、フランス国王ルイ14世に仕えた軍人・軍事技術者。1703年元帥。近代的な稜堡式の要塞の築城法を体系化し、また「落ちない城はない」と言われたほどの要塞攻城の名手であった。
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[編集] 生涯
[編集] ルイ14世への出仕
ヴォーバンは1633年、フランス、ブルゴーニュ地方ヨンヌ県のサン・レジェ・フォーシェレという小さな田舎町(現在この町は功績を称えサン・レジェ・ヴォーバンと改名)の貧乏貴族の家に生まれた。10歳のときに孤児となり、農村社会での極貧生活を経験した。幸運なことにカルメル会の保護を受けて高等教育を受ける機会が得られ、数学、幾何学、理学など後の業績につながる知識を得ることができた。
17歳でコンデ公の軍隊に入隊しフロンドの乱(1648年 - 1653年)に将校として参加する。その働きぶりがコンデ公の目にとまり、要塞の築城を任されることになった。1653年にヴォーバンは国王軍によって捕らえられ、マザランのとりなしでルイ14世に仕え、アンリ元帥の連隊に配属された。こうして今度は自らが築城した要塞を自ら攻略する立場となった。
フロンドの乱とそれに続くフランス・スペイン戦争が1659年に終結するまでの間、ヴォーバンは10回の攻囲戦に参加し、グランベリンの攻囲戦では技術士官団長に任じられ、たびたび負傷した。この間、1655年に王室侍従技術官(技術士官)に任命され、当時著名な軍事技術者であったシュヴァリエ・ド・クレルヴィルに師事する。またこのときに歴史あるピカルディ連隊の中隊に配属され、軍事工学の専門化として勤務することとなる。また同時期に従姉妹のジャンヌ・ドールネーと結婚した。
[編集] 領土拡張戦争
和平後はダンケルクをはじめとするフランス国内の防衛拠点の築城に従事する。以後、ヴォーバンは、平時においては要塞の築城、ルイ14世が行った一連の領土拡張戦争においては敵要塞の攻略を任されるようになっていき、人生に渡って53の攻囲戦と33の築城を行い、また運河や水道橋も手がけている。フランドル戦争(1667年-1668年)ではドゥエ、トゥルネー、リールなどを攻略。さらにオランダ戦争(1672年-1678年)では、ナイメーヘン、マーストリヒト、トリーア、ブサンソン、ヘントといった重要な攻囲戦を指揮した。
オランダ戦争終結後、築城最高責任者に就任し、一連の戦争でフランスが獲得した領土における防衛体制の整備にあたった。特に、平地の連続するフランドル地方では防衛のため要塞が必要と考えられ、ヴォーバンはダンケルクからディナンに至る第一線要塞群15か所と、後方の要塞群13か所の築城を指揮した。
オスマントルコによる第二次ウィーン包囲に乗じて、フランスがハプスブルク家領のネーデルラントに侵攻した際には、ヴォーバンは1683年にコーリック、1684年にルクセンブルクを攻略した。アウグスブルク同盟戦争(1688年-1697年)では、フィリップスブルクやナミュールの攻囲戦を指揮した。
[編集] 多分野での功績
この頃までにヴォーバンは、当時確立していた軍事技術と自らの実戦経験を合わせて、要塞攻城法と要塞築城法を確立した。攻城法としては、1673年のマーストリヒト攻囲戦で平行壕を、アウグスブルク同盟戦争では坑道戦や跳飛射撃(砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法)を導入した。築城法としては、以下に述べる「第一方式」から「第三方式」と呼ばれる基本設計を体系化した。生涯で、新たに基礎から築いた要塞が37か所、改修に携わった要塞が300か所、攻略した要塞が53か所とされている。
1703年1月14日にフランス元帥に叙せられる。同年、『要塞攻囲論』, Traité de l'attaque des places を著す。だがスペイン継承戦争(1702年 - 1713年)では、ヴォーバンが築城した要塞が攻略されるケースもあり、批判を受けることもあった。また、同時期に執筆した『要塞防御論』, De la defense des places は芳しい評価を得られなかった。
ヴォーバンは農林業や金融政策、植民地経営などに関する著作も残している。またフランス科学アカデミーの名誉会員でもあった。1690年代にはフランス各地の国勢調査を推進し、「フランスのウィリアム・ペティ」とも綽名された。
ヴォーバンはルイ14世の尖兵となって働いたが、同時にルイ14世の政策を批判もしている。1685年のフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令の廃止)には特に経済学的な観点から反対した。1707年には課税の平等と下層民の負担軽減を説いた『王室の十分の一税』, Projet D'une Dixme Royale を著す。同書は重農学派の先駆的業績として知られているが、ルイ14世はこの書に怒り、焚書を命じたという。
同年、パリにて死去した。遺体の一部は現在もアンヴァリッドに安置されている。
[編集] ヴォーバン式要塞
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- Association Vauban - ヴォーバンの第一方式から第三方式の模式図がある。
中世までの石積みで背の高い城壁は、ルネサンス期に攻城砲が出現すると格好の射撃目標となった。攻城砲の威力を減殺するために、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった。一方で防御側としても、同時期に登場した銃の威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。こうして稜堡式城郭が発達していった。
ヴォーバン式要塞は稜堡式城郭の完成形とも言える。ヴォーバンの築城法は、それまでにフランスやイタリアで定着していた方法と比べ独創的なものではない。ただし、それらを精緻な体系として作り上げたことにヴォーバンの功績がある。
1680年以前のヴォーバンの築城法は「第一方式」と呼ばれ、基本的には当時の標準的な方式である。典型例はザールルイスで見られる。稜堡の先端部同士の間隔を約300mに設定し、要塞全体の形状は線対称の多角形とされた。稜堡と稜堡の間にはラヴェラン(半月堡)と呼ばれる本体と分離した防御施設が置かれた。
1682年のベルフォールの築城以降採用された「第二方式」では、ヴォーバンの経験に基づく改良が取り入れられている。まず稜堡を二重式にして、外側を本体と分離し、外側が攻め落とされても抗戦を続けられるようにした。ラヴェランの内側に設置される凹堡も強化された。
1698年のヌフ・ブリザックの築城で採用された「第三方式」ではラヴェランも二重化された。このようにして、縦深性を高めた堅固な防御システムが完成した。
[編集] 後世への影響
ヴォーバン以降のフランスでの要塞築城は必要性に基づいて進められたものであるが、国家財政にとっては重い負担となった。負担は国民が背負わされ、やがてフランス革命につながっていく。だが皮肉なことにフランス革命戦争では、これらの要塞は旧式化しつつも、国境の防衛に改めて効果を発揮した。
しかしナポレオン戦争の時代に入って、軍隊が国民軍として大規模化し、兵站や通信の機能も進歩すると、要塞の重要性は低下した。ナポレオンは多くの場合、敵要塞は予備部隊に任せ、自らは主力部隊と共に要塞を無視して敵地奥深くへ侵攻した。対仏大同盟軍も同様の戦略を取ったことで、ナポレオン戦争中は攻城戦はほとんど行われなかった。こうして、要塞はコストがかかる割に、戦略的には補助的な位置づけのものとなった。
その後、野砲の射程が延びたことで、中心都市そのものの周囲を稜堡式の城郭で覆うのではなく、中心都市から一定距離を置いた地点に小型のヴォーバン式要塞ともいえる堡塁を複数築き、そのネットワークをもって中心都市を防衛するという考え方が主流となった。日本においては、江戸と台場はこの関係にあると考えられるが、幕府の予算不足のためネットワークは未完成に終わった。函館と五稜郭もこの関係にあるという考え方もあるが、五稜郭はこの目的の城郭としては古い形式である。
20世紀に入ると、柔軟性が無く莫大なコストがかかる要塞(永久築城)は時代遅れとなり、野戦築城(塹壕)が主流となった。それでもマジノ線のように、塹壕線と同規模のものを永久要塞の手法で建造するという野心的な試みもなされたが、無用の長物に終わった。ただし海岸砲台については、その特性上艦砲に比べて有利であったがため、有効な防衛施設として機能した。
[編集] 参考文献
- Association Vauban
- Montmédy
- 『戦略戦術兵器事典(3) ヨーロッパ近代編』, 学研, ISBN 4056007446
- Fortifications of Saint-Martin-de-Ré - île de Ré - France (in French)